新入生オリエンテーションの翌日、学院では「商業科体験クラブ」なる新企画が静かにスタートしていた。
「先輩たちの模擬授業、ほんとに分かりやすかったって評判だよ」
そんな声が生徒たちの間からちらほらと聞こえる中、和先生はいつものように教室で資料の準備をしていた。
その時――
「失礼します。和先生、今お時間よろしいでしょうか」
穏やかな声とともに、教室の戸口に一人の新入生が立っていた。
栗色の髪を左右に三つ編みにまとめ、小柄な体をぴんと伸ばして立つその少女は、制服姿もきちんと着こなしており、目には不思議な真剣さが宿っていた。
「如月……柚羽と申します。昨日の模擬授業を拝見して、先生にぜひ、お話を伺いたいと思いまして」
「もちろん。どうぞ、入って」
和先生が席を促すと、柚羽は小さく頭を下げて静かに歩み寄る。彼女が鞄から取り出したのは、模擬授業中に配布された資料と……細かく書き込まれたノートだった。
「この“貸方と借方”の概念……資本との関係について、もう少し深く知りたいんです。あと、先生が昨日おっしゃった“信用は目に見えない資産”という言葉、あれは……先生ご自身のご経験から来たもの、ですよね?」
和先生の手が一瞬止まる。が、すぐにふっと笑った。
「よく見てるなあ……あれは、まぁ……そうだね」
その笑みに、柚羽はほんの少し、微笑みを浮かべた。
「私、まだ未熟ですけど……先生の授業を受けて、心から“商業”って面白いと思えたんです。いつか、商業科に編入できるように頑張りたい」
その言葉に、和先生は真剣なまなざしを向け、
「うん、君ならきっとできるよ。如月さん」
と頷いた。
――そのやりとりを、たまたま準備室に忘れ物を取りに来ていたユリシアは、静かに見つめていた。
(……おにいたんと話してるあの子、誰?)
ドアの隙間からこっそり覗くユリシアの視線の先で、柚羽が柔らかな笑顔で和先生に礼を述べていた。
その様子は、まるで“信頼を交わす瞬間”だった。
「ねえねえ、ちょっと聞いてよー!」
昼休み、校舎裏のベンチに雫と茉里絵を呼び出したユリシアが、バタバタと駆け寄りながら言った。
「うーん、それって……その柚羽さんって子、確かにちょっと気になるわね」
「表情は柔らかくても、目はすごくまっすぐですわ。なかなかの気配……」
そこへ、ジャージ姿の渚先生もひょこっと現れる。
「もしかして、如月さんの話?」
「知ってるんですか?」
「ええ。昨日の模擬授業の後、図書室で簿記の文献を片っ端から読んでた子。とても礼儀正しくて、自分の意思で動いてるタイプだったわ」
4人の間に、ふわりと緊張が走る。
「……まあ、でも」ユリシアが笑って拳を握る。「おにいたんが誰かに優しくするのは今に始まったことじゃないし!」
「そうよね!誰にも負けない努力、してみせるんだから!」雫がバチッと目を光らせた。
「私たちの立場、そう簡単には揺るがせませんわよ」茉里絵が扇子を鳴らす。
「でも……気を引き締めておいた方がいいかもしれないわね」 渚先生が静かに言った。
4人は小さく頷きあいながら、新たな春の空気に身を引き締めた。
――その時はまだ、如月柚羽がこれほどまでに彼女たちの心をかき乱す存在になるとは、誰も想像していなかった。