閑話 ゴールデンウィーク*柚羽の「がんばり過ぎ注意報」

第2学年

“48 時間完璧計画” 発動――まだ見知らぬ背中越しの決意

ゴールデンウィーク前夜。寄宿舎の玄関ホールは旅行バッグをころがす同級生たちの笑い声で満ちていた。
しかし、そのにぎわいを脇に避けるように、如月柚羽は両手で大きなホワイトボードを抱え、ひとり談話室へ向かう。入学からまだ一カ月と少し。制服の袖はきちんとアイロンが当たり、栗色のストレートロングをきちんと結い上げ――“真面目”と書いて歩いているような少女だ。

談話室に着くころには時計は二十二時。

廊下の掲示板には連休予定の張り紙が揺れている。
> 〈学院掲示板〉
> 渚先生:陸上部合宿引率のため 5/3〜5/5 寮不在 / 橘 茉里絵:公爵家晩餐会参加のため帰省

――つまり今夜、寄宿舎に残っている先輩はごくわずかだ。窓の外で星が瞬いている。柚羽はボードを立て、3色マーカーで線を引いた。

05:00 起床・紅茶で目覚まし
07:00 テキスト読み込み(商業基礎30頁)
12:00 お弁当を作り庭園で昼食 ★唯一のリフレッシュ★
14:00 過去問トライ(合計2周)
22:00 就寝(翌日も同スケジュール)

線の端に小さく〈達成率100%!!〉と赤丸。隣に〈失敗しても凹まない〉と青字――背伸びをし過ぎた計画に自分で慰めを描き込む。その健気な姿を、廊下を通りかかった立野雫が無言で横目にしたことを、柚羽はまだ知らない。

ドジ① “はちみつレモンティー”の落とし穴――冷たい甘さと熱い視線

翌朝五時。寄宿舎キッチンはまだ薄暗い。カーテンの隙間から差し込む黎明色の線が、ステンレス台を冷たく照らしている。湯が沸く音とともに、柚羽は冷凍庫に手を伸ばした。

「はちみつレモン……アイス?」

凍ったスティックを見つけた瞬間、脳裏に“ビタミンC→集中力向上”の方程式がよぎる。紅茶のマグにアイスをポン。じゅわりと溶け出す甘い香り。しかし、氷塊は半分しか溶けず、結果できあがったのは 常温以下の蜂蜜水+紅茶の残り香

「……っ、甘い。でも飲めなくは……ない!」

顔をしかめつつ飲み干したタイミングで、背後から乾いた靴音が近づく。振り向けば長い金髪の雫が腕を組み、片眉だけを上げていた。

 

雫

……あんたさあ、朝から妙~に甘ったるい匂い振りまいて、何してるの?

柚羽
柚羽

し、失礼しました! 集中のための特製ドリンクを……

雫

特製って……それ、むしろ糖で眠くならない?

雫は近寄り、マグの底をのぞきこむ。湯気はほとんど立っていない。

雫

ま、カフェインよりは胃に優しいかもね。……お湯追加して温め直せば?

トゲを抑えた声色。提案とともに電気ケトルのスイッチを押し、振り向かずに去ろうとしたところで、不意に足を止める。

雫

あと、ゴミはきっちり分別ね。寮母さん厳しいから

言い終えるとストレートロングをひるがえし、足早に廊下へ。
柚羽は背筋を伸ばし「ありがとうございます!」と深く頭を下げた。返事はないが、キッチンのドアがそっと閉まる音が妙に優しく聞こえた。

ドジ② 白米の大脱走――高熱の湯気、そして小さな叫び

午前十時。台所に再び立つ柚羽は、塩むすび用に炊飯器の蓋を開けた瞬間、ぶわっ と白い蒸気が噴き上がる。熱気で視界がかすみ、思わず身をのけぞると、しゃもじが跳ね返り、炊飯器の内釜がカウンター端にコツン。

ぐらり傾いだ釜から、まるで雪崩のように艶やかな米粒がこぼれ落ちた。

柚羽
柚羽

わー! あっ、あっ……!

慌てて鍋つかみで釜を支えるが、床には真っ白な斑点――蒸気で湿った床がすぐに滑りやすくなる。雑巾を探し戸棚を開け閉めしていると、パタンと勢いよくキッチンドアが開いた。

雫

何しているのよ! あんたってば、もう本当に……!

雫はスリッパのまま床に飛び込み、戸棚から雑巾を二枚引っつかむと柚羽の手に一枚押し付け、自分も膝をついて米粒をかき集め始めた。

雫

ほら、そこ滑るから気をつけて!

柚羽
柚羽

ご、ごめんなさい! 一人で何とか……

雫

黙って拭く! 床を乾かすのが先!

ツンとした声に叱咤というより救われる気持ちで、柚羽も無言で拭く。十分後、床はもとの木目を取り戻した。

雫

ふぅ……。失敗しても、次に活かせばいいのよ

その言葉に柚羽は目を瞬かせる。雫は照れ隠しのように視線をそらし、雑巾を洗い場に放り込むと「私は部屋に戻るから」とだけ言って去る。

――額に浮いた汗を袖で拭きつつ、柚羽の胸中にじわりと温かさが満ちた。

インタールード――遠い窓辺で想う妹

雑巾をすすぎ終えた雫は、自室へ戻る途中で階段踊り場の窓に立ち止まった。午前の柔らかな陽光が廊下を淡い金色に染め、風にそよぐ木々の向こうには市街地の屋根が小さく連なっている。

ポケットからスマートフォンを取り出し、指先で妹・美咲(みさき)のチャットアイコンを撫でる。実家は今ごろ、近所の惣菜屋の特売コロッケで簡単な昼食だろうか。

雫

……美咲、牛乳はちゃんと飲んでる? お昼寝、寂しくない?

寄宿舎に移った二年生の春。妹と離れて暮らすのは初めてだった。家計は苦しい。それでも学費免除と寮費ゼロの奨学金を選んだのは、少しでも妹に暖かい布団と、欲しがっていた新しい文房具やマンガを買ってあげたい――その一心。

“発信”ボタンに触れかけた指が止まる。美咲は今日は町内の子ども会でピクニックに出かけている。電話をすれば楽しさを奪うかもしれない。

胸がきゅっと縮む。そのとき、廊下の先から米粒事件でバタバタする柚羽の姿が見えた。思わず苦笑がこぼれる。

雫

世話の焼ける子が、また一人増えたってわけ

妹を思う感情と、柚羽に向ける視線が静かに重なり合う。 スマホをそっとポケットに戻し、くるりと踵を返すと、雫の背はほんの少し軽くなっていた。

ぎこちない昼――メロンパンと二人のまどろみ

正午。春風がやや強い校内庭園。ベンチに腰かけ、竹皮包みの塩むすびを取り出す柚羽。
そこで背中にかかった柔らかな声。

ユリシア
ユリシア

あ、柚羽ちゃん! ひとりでお昼なの?

ユリシアは人懐っこく、にこにこと近寄る。爽やかな青いショートヘアをふわりと揺らし、手にはコンビニ袋。

柚羽
柚羽

えっと……今日は集中デーなので

ユリシア
ユリシア

ふふっ。私ね、メロンパン買いすぎちゃって。良かったら半分こしよっ

差し出された袋。柚羽は遠慮がちに受け取り、ベンチの端へそっと腰を下ろすユリシアと並ぶ。
風が桜の若葉を揺らし、木漏れ日が二人の膝に落ちる。

包みを開くと、甘い香り。柚羽の胸がふわっと緩む。
しかし言葉が出ず、二人とも視線はメロンパンに固定。

ユリシア
ユリシア

ね、ねぇ……柚羽ちゃんってさ、“おにいた……じゃなくて、和先生”の授業、どう思う?

言い換えに気付き、頬を染めるユリシア。
柚羽は一瞬だけ驚き、その頬の色に自分も釣られるように赤らむ。

柚羽
柚羽

とっても分かりやすいし……目指したい背中です。ユリシアさんは?

ユリシア
ユリシア

私は……えへへ、尊敬と、あと……ちょっとだけ特別、かな

言い終わったユリシアは照れ笑いで視線をそらす。
柚羽は胸がきゅっとなるのを覚えた。――特別、という単語の重み。
少し切なく、それでも甘いパンの味が舌にじんわりと残る。

やがてユリシアは立ち上がり「勉強、がんばってね!」と軽く手を振って戻っていった。
去り際の風に揺れた青いショートヘアが、午後の日差しを跳ね返して輝いていた。

柚羽
柚羽

……ユリシアさんに追いつけるくらい、私も頑張りたい

そう呟くと、メロンパンの半分を小袋にしまい、残りをゆっくり味わった。

ドジ③ ベランダの鉢植えにシジュウカラたちが一斉に舞い降りた。

かわいらしい囀り――しかし翼が触れた鉢は傾き、乾いた土がカーテンを揺らす。
驚いた柚羽が立ち上がると、鳥たちは驚いて一斉に飛び立ち、カーテンが大きくはためいて机上のノート山を直撃。

――バサァッ

付箋とコピー用紙が空中を舞い、色とりどりのタグが吹雪のように散乱。

柚羽
柚羽

うそ……うそ、やだやだやだ!

柚羽は膝をつき、必死にページ順を追う。焦りで手が震え、同じ番号の付箋を何度も確認し直す。
時計は 15 時を回り、予定表には赤インクで〈14:00 過去問〉と書かれたまま。

柚羽
柚羽

予定が遅れる……でも、やるしかない!

深呼吸を三回。散らかった紙を一枚ずつ重ね直し、テキストにしおりを挟み直す。カーテンの外ではシジュウカラが再び枝にとまり、囀りだけ残して飛び去った。

机の上が整ったときには 15 時 40 分。
遅れた分は夜に回す。それでも予定表の〈凹まない〉の文字が、薄く灯るランプのように胸を照らした。

夕映えの見守り灯――距離が 5cm 縮んだ夜

18 時。校舎遠景にある遊園地から連休イベントの花火が上がる。ドン、と小さな音が窓ガラスを震わせ、橙色の光が机を染めた。

柚羽はホワイトボードの〈達成率〉欄に 68% と記入し、その横に +α:学びは数字以上! と青字で追記。胸中の達成感は数字より大きい。

そこへノック。ドアを開けると雫が立っていた。手には小さな シリコン製計量スプーン とレシピメモ。

雫

さっき雑巾洗ってるときに落ちてた。たぶんあんたの。──で、これ、私の唐揚げレシピ。揚げ時間だけメモしといたから

柚羽
柚羽

え……私のために?

雫

ち、違っ。寮母さんに出禁食らう前に味マトモにしないと困るでしょ

そのやり取りの最中──

雫

……ほんとは今日一日ずっと気になってた。無茶して空回りしがちなくせに、“凹まない”なんて書いて強がって……。少しくらい私を頼っていいのに

頬に微かな熱を感じながら、雫はそっぽを向きながらもレシピメモを机に置き、計量スプーンを柚羽の手にそっと乗せる。その指先がふと触れ、柚羽の胸が少し高鳴った。

柚羽
柚羽

“あんた”って呼ばれたけど……ちゃんと見ててくれたんだ

柚羽
柚羽

……ありがとう、雫

素直な言葉がこぼれる。“さん”など要らない距離まで、5センチだけ縮んだ気がした。

雫は手を振るでもなく、わずかに口角を上げただけで「早く寝なさい。計画の続きは明日の朝でしょ」と言い、静かに扉を閉めた。

ドアの向こうで足音が遠ざかる。花火は最後の菊を夜空に描き、静かに消える。
柚羽は計量スプーンを胸の前で握りしめ、ホワイトボードの〈凹まない〉に二重丸を描き足した。

柚羽
柚羽

予定が崩れても、大事なことは……人の優しさを忘れないことだ

小さなツンと小さな優しさが交差した一日。
その余韻とともに、真面目で頑張り屋の少女は翌日のページをめくった。