2025年8月25日(月)晴れ
第1章:淑女と女優の、退屈な夜
八月二十五日、月曜日。夏休みも残すところ一週間を切り、夜になっても寄宿舎・月華寮の廊下には、ねっとりとした熱気がまとわりついていた。古い建物の石造りの壁も日中の熱を蓄えたままで、窓を開け放っても、外から流れ込んでくるのは生温い風ばかり。
2-A号室。茉里絵と雫の部屋では、二人の少女がそれぞれのベッドの上で、手持ち無沙汰に天井を見つめていた。扇風機は最大風量で回っているものの、かき混ぜられる空気はやはり湿っていて、肌にまとわりつくような不快感を拭えない。

…本当に、暑いですわね
優雅なシルクのナイトドレスに身を包んだ茉里絵が、ぱたぱたと扇子を仰ぎながら、上品にため息をついた。しかし、その白い額には薄っすらと汗が浮かんでいる。

暑いっていうか、暇なのよ。もう何時間も天井見てるじゃない
Tシャツとショートパンツ姿の雫が、ベッドの上でゴロゴロと寝返りを打った。いつもの強気な表情も、この暑さには敵わないらしく、どこか気だるそうだ。

あんたはまた、その衣装のデザイン?少しは休憩したらどうなの
雫が顔を向けた先では、茉里絵が薄暗い読書灯の下で、スケッチブックに向かっていた。

あら、これはわたくしの生きがいですもの
茉里絵は優雅に微笑みながら、ペンを走らせる。

雫さんこそ、簿記の勉強はよろしいのですか?

今日はもうやったわよ。三時間もやったんだから
雫は再び天井を見上げて、大きくため息をついた。

はぁ。なんか、こう…夏らしくて、スリルのあること、ないわけ?この退屈な夜を何とかしてくれるような…
その雫の一言に、茉里絵の手がピタリと止まった。そして、ゆっくりと顔を上げ、薄暗い光の中で悪戯っぽい笑みを浮かべる。

スリル、ですの…?

え?

でしたら、一つございますわよ。淑女の嗜みとは少し異なりますけれど…
茉里絵はそう言うと、立ち上がって部屋の電気を消した。途端に部屋は闇に包まれ、枕元の小さな読書灯だけが、二人の顔に不気味な影を落とす。気温は変わらないはずなのに、なぜか背筋がひんやりとした。

…怖い話、というのは、いかがかしら?
茉里絵の上品な声が、暗闇の中で妙に響く。雫は思わず身を起こした。

怖い話?あんた、そういうの好きなの?

ええ。幼い頃、祖母から様々なお話を聞かされて育ちましたの。ヨーロッパの古い館に伝わる、本当にあった恐ろしいお話を…
茉里絵の声には、いつもの上品さに加えて、どこか神秘的な響きが混じっていた。
第2章:招かれざる(?)お客様

本当にあった、って…まさか信じてるわけじゃないでしょうね?
雫は強がって見せたが、薄暗い部屋の雰囲気に、知らず知らずのうちに声が小さくなっていた。

信じる、信じないは、お聞きになってから判断なさればよろしいのでは?
茉里絵が微笑む。その笑顔が、読書灯の光で下から照らされ、いつもより少し怖く見える。
コンコン。
まさにその時。控えめなノックの音が、静寂を破ってドアを叩いた。

ひっ…!
雫が小さく悲鳴を上げそうになったのを、慌てて口を押さえる。茉里絵も一瞬身を硬くしたが、すぐに上品な笑顔を取り戻した。

は、はい!
少し上ずった声で茉里絵が返事をすると、ドアの隙間から、おずおずと柚羽が顔を覗かせた。

あの…茉里絵先輩、雫先輩。夜分に申し訳ありません
柚羽の声は、いつもの丁寧で控えめな調子だった。しかし、薄暗い部屋の様子に、少し困惑した表情を見せている。

先日お借りしたノートを、お返しにまいりました

あら、柚羽さん。わざわざご丁寧にどうも
茉里絵が優雅に立ち上がる。

ふん、律儀なやつね。まあ、入りなさいよ
雫も起き上がりながら、どこかホッとした様子で言った。
柚羽が恐る恐る部屋に入り、ノートを茉里絵に手渡そうとした、その時だった。

ねえ、あんたも付き合いなさいよ
雫がニヤリと意地悪く笑う。

え…?
状況が飲み込めない柚羽に、茉里絵が申し訳なさそうに、しかしどこか楽しそうに付け加えた。

ふふっ、怖い話ですのよ、柚羽さん。よろしければ、ご一緒にいかが?
その言葉を聞いた瞬間、柚羽の顔からサッと血の気が引いた。ノートを持つ手が、微かに震えている。

か、怖い話…ですか…?わ、私は、そういうのは、その…大変、苦手でして…!
柚羽は慌ててぶんぶんと首を横に振った。その必死な様子に、雫は面白がるような笑みを深める。

あらあら、怖がりさんですのね
茉里絵が優しく微笑んだが、その笑顔にも微かないたずら心が見えた。

大丈夫ですわよ、ただのお話ですもの

そうよ。先輩の命令は、絶対。いいから、そこに座りなさい
雫に有無を言わさぬ口調で言われ、柚羽は困り果てた表情で立ちすくんだ。心の中で必死に理由を探すが、先輩に逆らうことなどできない。

ど、どうしよう…でも、先輩方のお誘いを断るなんて…
結局、柚羽は半泣きになりながら、二人のベッドの間にちょこんと座るしかなかった。その小さな体が、まるで怯えた小動物のように縮こまっている。
第3章:恐怖の序章

じゃあ、まずはあたしからね
雫は、読書灯の光を自分の顔に当てるように位置を調整した。女優としての経験が、どうすれば効果的に見せられるかを教えてくれる。

これは、この学院に古くから伝わる話よ…
雫の声が、わざとらしくゴクリと喉を鳴らしてから、低く潜められた。
柚羽は既に両膝を抱え、小さくなって座っている。

ああ、どうして私がこんな目に…お話だけですよね…きっと大丈夫…

夜中に誰もいないはずの音楽室で、ピアノがひとりでに鳴り出すっていう…
雫が語る、ありふれた学校の怪談。しかし、薄暗い部屋の雰囲気と、彼女の女優としての技巧が、じわじわと恐怖を煽っていく。

その音楽室は、この学院の旧校舎の三階にあるのよ。昼間でも薄暗くて、誰も近寄りたがらない場所…
柚羽の呼吸が、少し浅くなってきた。

…その日も、一人の生徒が、夜中に音楽室の前を通りかかった。すると、中から聞こえてくるのよ。ショパンの『別れの曲』が…
雫の語り口は、まさに舞台俳優のよう。声の抑揚、間の取り方、全てが計算されている。

でも、その生徒が一番怖かったのは、ピアノの音じゃない
雫が声をさらに落とす。

その音に混じって聞こえてくる、か細い…女の子の、すすり泣く声だったんですって…

ひっ…!
柚羽が小さな悲鳴を上げ、思わず茉里絵の方に身を寄せた。もう両手で膝を抱きしめ、完全に怯えきっている。

だ、大丈夫…これはお話…作り話…
しかし、心の中でそう言い聞かせても、暗い部屋の雰囲気と雫の巧妙な語りが、理性を蝕んでいく。
第4章:優雅なる恐怖

次は、わたくしの番ですわね
茉里絵は立ち上がると、優雅にカーテンを開けて月光を取り入れた。しかし、雲が月を覆い隠し、かえって不気味な陰影が部屋に踊る。

これは、わたくしの曽祖母から聞いた、とある西洋の館のお話…
茉里絵の上品で美しい声が、まるで呪文のように響く。雫の荒々しい語りとは対照的に、その優雅さがかえって恐怖を増幅させていた。

その館には、一枚の美しい少女の肖像画が飾られておりました。金の髪に青い瞳、まるで天使のような美しさでしたの
柚羽はもう、茉里絵の袖にしがみついている。

や、やっぱり帰りたい…でも、もう途中で抜けるなんて…

しかし、その絵には奇妙な噂があったのです。夜中に絵の前を通ると、絵の中の少女が、その日の気分によって、微笑んだり、泣いていたり…
茉里絵が、優雅に紅茶を一口飲むふりをする。その所作すら、この状況では恐ろしく感じられる。

時には…こちらを、恨めしそうに睨みつけてきたりするのだとか…
茉里絵の上品な声が、逆に恐怖を増幅させる。三人の少女の心臓は、破裂しそうなほど高鳴っていた。柚羽はもはや、息をするのも忘れているかのようだった。

もう、やだ…怖い…帰りたい…でも、動けない…
カタッ。
その、小さな物音が響いたのは、そんな時だった。
第5章:限界突破の瞬間
「「「きゃあああああああああっ!!!」」」
今度は三人とも、完璧なハーモニーとなって夏の夜に絶叫した。

な、なによ今の音!?
雫が涙目で部屋の隅を指さす。

し、知りませんわ!
茉里絵は顔を真っ赤にして扇子で顔を隠している。

まあ、淑女にあるまじき悲鳴をあげてしまいました…!
そして、柚羽は—

もうやだー!怖いんだもん!だから嫌だって言ったのにー!
その、今まで聞いたこともないような、甘えた子供っぽい声。
雫と茉里絵は、驚きで目を見開いた。そこにいたのは、いつもの丁寧で控えめな後輩ではなく、大粒の涙を瞳に浮かべ、わなわなと震える、まるで幼い子供のような柚羽だった。

ゆ、柚羽…?
雫が呆然と呟く。

あんた、その喋り方…

え…?
指摘されて、柚羽は自分の口調が変わってしまっていることに、ようやく気づいた。顔が真っ青になったかと思うと、今度は真っ赤になる。

まあ、柚羽さん…
茉里絵が、驚きと面白さが半分ずつ混じったような顔で尋ねる。

そのような可愛らしい話し方も、お出来になるのですね…?

あ…あ…!
柚羽は慌てふためいた。

ち、違います!これは、その…!怖すぎて、つい…!忘れてください、です!
しどろもどろになりながら、いつもの丁寧な口調に戻ろうとする柚羽。しかし、一度出てしまった素の姿は、もう隠しようがなかった。その、あまりにも必死で、あまりにも可愛らしい姿。
恐怖で張り詰めていた空気は、一瞬にして和やかな笑いに変わっていた。

ぷっ…あはははは!
雫が吹き出す。

ふふっ、まあ、なんて愛らしいのかしら!
茉里絵も優雅に笑った。

もう!笑わないでください、です!
顔を真っ赤にして抗議する柚羽の頭を、雫は「はいはい」と言いながら、優しく撫でた。まるで妹をあやすように。
第6章:真夏の夜の秘密
カタッ。
再び、同じ物音が響く。今度は三人とも、恐る恐る音のした方を見た。
「あ…」
そこには、開いていた窓から吹き込んだ夜風で、茉里絵のスケッチブックが床に落ちているだけだった。
「…なーんだ」
三人は、もう一度顔を見合わせて、今度は安心したように笑い合った。先ほどまでの恐怖が嘘のように、部屋には温かな空気が流れている。

ねえ、柚羽
雫が、まだ少し震えている後輩に声をかける。

さっきの喋り方、可愛かったわよ

そうですわ
茉里絵も同意する。

まるで小さな妹のようで、とても愛らしゅうございました

もう…
柚羽は恥ずかしそうに俯いた。

普段は、先輩方の前では、きちんとしなければと思って…でも、怖すぎて…

いいのよ、そのままで
雫が優しく言う。

たまには、素の自分を見せてくれても

そうですわ。いつも完璧でいる必要はありませんのよ
茉里絵が立ち上がると、クローゼットからとっておきの高級チョコレートを取り出した。

せっかくですから、怖い話の続きはやめて、ガールズトークでもいたしません?
その夜、三人は夜が更けるまで語り合った。柚羽の本当の姿、お互いの秘密、そして夏休みの残り日数への想い。

今度、怖い話をする時は、事前に教えてくださいね
柚羽がお願いする。

あら、でも今日のあなた、とても可愛らしかったですわよ
茉里絵がにっこりと笑う。

そうそう。普段のかしこまった感じも良いけど、たまには甘えん坊も悪くないわね
雫も同調した。
真夏の夜の暑さも忘れ、三人は笑い声に包まれていた。
柚羽の、誰にも見せたことのない本当の姿。それは、真夏の夜がくれた、三人だけの小さな、しかし大切な秘密になったのだった。
窓の外では、ようやく雲が晴れて、満月が三人の新しい友情を優しく照らしていた。

