2025年9月13日(土曜日)
第1章:最終リハーサルと、甘い香り
九月も半ばに差し掛かった土曜日の午後。和先生の家では、ユリシアが一人、そわそわと落ち着かない様子でリビングと自室を行き来していた。おにいたん♡は、渚先生との「健全なウォーキング」とかいう口実で、今日も午前中からお出かけだ。

ふふん、せいぜい今のうちに楽しんでればいいんだから…
ユリシアは少しだけ唇を尖らせたが、すぐに自信に満ちた笑みを浮かべた。なぜなら、全ての決着がつく「運命の日」は、もう明後日に迫っているのだから。

よし…!
自室に戻り、姿見の前で最後の仕上げに取り掛かる。衣装はもちろん、あのアオちゃんのバニースーツだ。水色のレオタードに、ぴょこんと立った可愛いウサギの耳。鏡に映る自分の姿を確認しながら、決めポーズを次々と繰り出していく。

『うるうるおねだりポーズ』からの…『ぴょんぴょん甘えんぼジャンプ』!
ぴょん、と軽やかに跳ねる。胸の前で両手を合わせ、首を少し傾げて上目遣い。そして最後に、とびきりの笑顔。

完璧♡
一つ一つのポーズを確認するたびに、彼女の自信は確信へと変わっていく。今朝、こっそり見たアオちゃんの新作動画でも、このポーズでお兄様(CV:和先生そっくりの声優さん)がメロメロになっていたのだから、間違いない。
練習を終えた彼女は、衣装を大切にクローゼットにしまうと、エプロンをきゅっと結んでキッチンへと向かった。決戦の日に出す、お月見団子の最終試作のためだ。
白玉粉と上新粉を丁寧に混ぜ合わせ、お豆腐を少しだけ加える。これが、ふっくらもちもちに仕上げるユリシア流の秘密のレシピ。水の量を慎重に調整しながら、愛情を込めて生地をこねていく。

当日は、これに甘いきな粉と、おにいたん♡が大好きな黒蜜をたっぷりかけてあげるんだから…
湯気の立つ鍋の中で、白く丸い団子がぷかぷかと踊る。その光景は、まるでお月見の夜に、おにいたん♡の隣で幸せに微笑む、自分の未来の姿そのもののように思えた。

えへへ…おにいたん♡、『美味しいよ、ユリ』って言ってくれるかな…
頬を染めながら、彼女は完成した団子を一つ、そっと口に運んだ。優しい甘さが口の中に広がる。これなら、きっと大丈夫。
第2章:共犯者たちの、秘密会議
その頃、寄宿舎「月華寮」の一室。雫と茉里絵が共同で使っている広めの部屋では、共犯者たちによる秘密の作戦会議が開かれていた。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上に並べられた資料を照らしている。そこには、手書きの地図、タイムスケジュール、そして買い出しリストが整然と並んでいた。

…それで、ユリちゃんは月曜日の夜、和先生のご自宅で二人きりでお月見をする、という計画で間違いないようですわね
茉里絵が、優雅に紅茶を淹れながら確認する。彼女の手つきは淑女そのもので、ティーポットから注がれる琥珀色の液体が、白磁のカップに美しいアーチを描いて注がれていく。

ええ。あいつ、本気で十五日が十五夜だと思い込んでるんだから、笑えるわよね
雫は、テーブルの上に広げられた計画の進行表を眺めながら、満足そうに頷いた。彼女の目の前には、都内でも有名な老舗和菓子店から取り寄せた、うさぎの形をした可愛らしいお饅頭のパンフレットが広げられている。

は、はい!わたしも、お団子に合う美味しい緑茶の淹れ方を、作法の先生から教わってまいりました!
一年生の柚羽が、緊張した面持ちで、しかしどこか嬉しそうに言う。
三人の計画は、着々と進行していた。ユリシアの盛大な勘違いを、最高の形で演出するための『偽りのお月見計画』。それは、親友の恋を応援したいという優しさと、彼女のドジっぷりを最高に楽しんでやろうという、ちょっぴり意地悪な悪戯心が完璧に融合した、壮大なサプライズだった。

しかし、問題はそこですわ
茉里絵が、核心を突く。彼女は扇子を優雅に開くと、口元に当てて思案顔を作った。

わたくしたちが、どうやって和先生のご自宅にお邪魔するか…。ユリちゃんの二人きりの計画を、台無しにしてしまっては可哀想ですもの

簡単なことよ
雫は、ニヤリと笑った。その表情には、何か企みがあることを示す、独特の輝きがあった。

主犯の男を、あたしたちの共犯者に引きずり込めばいいのよ

まあ、和先生をですの?
茉里絵の目が丸くなる。

そうよ。あたしが明日、先生に連絡して、ユリシアの盛大な勘違いをこっそり教えてあげる。
そして、あいつの『二人きりのお月見デート』を、あたしたちも参加する『サプライズお月見パーティー』に格上げしてあげるのよ。
主役はもちろん、何も知らないユリシアだけどね

まあ、雫さん。少し悪知恵が働きすぎではありませんこと?
茉里絵が扇子で口元を隠しながら、くすくすと笑う。

うるさいわね。これも、あいつの壮大な勘違いを成功させるためじゃない

で、でも…ユリシア先輩、ショックを受けたりしませんか?
柚羽が心配そうに尋ねる。

大丈夫よ。あいつ、みんなに祝福されたら、それはそれで喜ぶタイプだから
雫の言葉に、三人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
第3章:きっかけは、職員室でのささやき
実は、この計画が動き出したきっかけは、昨日の金曜日の夕暮れに遡る。
学院の職員室では、渚先生が一人、残って週末の体育祭の準備をしていた。そこに、少し困ったような表情の和先生が近づいてくる。

渚先生、ちょっといいかな

はい、和先生。どうかなさいました?
渚は内心ドキリとしながらも、完璧な笑顔で応じた。

いや、大したことじゃないんだが…。ここ数日ユリシアが自室に籠ってなかなか出てこなくてね。
ただ、昨日うっかり彼女の買い物メモを見てしまったんだが、『白玉粉、大量』とか書いてあって…。
いやはや、何かの儀式でも始めるのかと、私のようなおじさんにはさっぱり見当もつきませんで…。
渚先生なら、何か心当たりはありますか?

白玉粉、大量…?まさか、お団子?この時期に…お月見!そうよ、ユリシアさん、十五夜の日付を勘違いしているんだわ!
お月見といえば、うさぎ…そして和先生が好きな『トゥインクル☆バニーダンス』…。ということは、バニーの格好でサプライズするつもりなのね…!
なんて可愛らしい計画…でも、これは…!
込み上げる想いをぐっとこらえ、渚は教師としての冷静な仮面を貼り付けた。

さあ…でも、何か楽しい計画でも立てているのかもしれませんね。少し、他のお友達にも探りを入れてみましょうか?

そうだね、ありがとう。渚先生はいつも頼りになるなぁ
和先生の無邪気な笑顔に、渚の決意は固まった。

ユリシアさん、あなた、そんな大胆な作戦を…。でも、それを黙って見ている私じゃないわ。まずは情報収集。一番事情に通じていそうなのは…雫さんね
第4章:盤上の刺客と、新たな共犯者
そして土曜日の午後。寄宿舎で秘密会議を開いていた雫たちの元に、渚先生からのメッセージが届いたのだった。
ピロン、と。
雫のスマートフォンが、軽快な通知音を立てる。その場にいた三人の視線が、一斉に注がれた。雫は少し面倒くさそうに画面をタップすると、その表情をわずかに曇らせる。

どうかなさいましたの?雫さん

…別に。どうせまた、どうでもいい芸能ニュースでしょ
雫はそう言ってスマホを裏返してテーブルに置こうとした。だが、その一瞬の逡巡と、いつもより険しい眉間のシワを、茉里絵と柚羽は見逃さなかった。

あの…何か、問題でも…?
おずおずと尋ねる柚羽に、雫は観念したように深いため息をつくと、スマートフォンの画面を二人に見せた。
【差出人:渚】 『雫さん、ごきげんよう。突然ごめんなさいね。月曜日の午後、和先生のことで少しご相談したいことがあるのだけれど、お時間いただけますか?』

渚先生…!?
柚羽が小さな悲鳴を上げる。
茉里絵は扇子をそっと開き、口元を隠した。その瞳は、しかし冷静に状況を分析している。

まあ…。ユリちゃんが決戦の日に定めた月曜日に、ですか…。これは、ただの偶然ではございませんわね

もしかしてあの筋肉女、月曜日のこと何か気が付いてる?
雫は忌々しげに舌打ちする。しかし、その瞳の奥には、何か別の感情も見え隠れしていた。

どうしましょう…!このままでは、ユリシア先輩の計画が…!
柚羽が本気で心配している。その純粋な瞳を見て、雫はふっと表情を和らげた。そして、女優としての本領が発揮される。彼女は不敵な笑みを浮かべると、指でトン、とテーブルを叩いた。

面白いじゃない。敵が動くなら、それすらも利用するのが本当の作戦ってものよ

どういうことですの?
茉里絵が興味深そうに尋ねる。

「渚先生も、あたしたちの『サプライズお月見パーティー』に招待してあげるのよ。もちろん、何も知らないふりをしてね」
雫は悪戯っぽくウィンクしてみせた。

まあ!
茉里絵の目が輝く。

敵を味方に引き入れる…まるで三国志の計略のようですわ!

そうよ。渚先生をあたしたちの監視下に置いて、和先生と二人きりになるのを防ぐ。そして、ユリシアの勘違いを、みんなで盛大に祝福してあげるの。これ以上の完璧な計画、ある?
雫の言葉に、茉里絵も柚羽も力強く頷いた。

それに…渚先生を巻き込めば、あたしが和先生に連絡するのも、ただの伝達役として自然に見えるじゃない。これはチャンスよ…!
雫は内心でほくそ笑みながら、決意を固めると、スマートフォンを手に取った。まずは渚先生に返信だ。
【宛先:渚先生】 『ご連絡ありがとうございます。月曜日の件、承知しました。実はその日、私達生徒で和先生へのサプライズを計画していまして…先生にもぜひ、ご協力いただけないでしょうか?』
メッセージを送信し、息を呑む三人。数秒後、既読マークがつき、すぐに返信が来た。
【差出人:渚】 『まあ!それは素敵!喜んで協力させていただきます♡ 詳細を教えていただけますか?』

…よし、食いついたわね
雫はそう呟くと、今度は意を決して、新規メッセージの作成画面を開いた。宛先は、ただ一人。
【宛先:和先生】
その文字を見つめる雫の心臓は、今までになく大きく高鳴っていた。あの優しい先生に、自分からメッセージを送るなんて。しかも、これは作戦のためとはいえ、実質的にはデートの約束をするようなもの。

雫さん、どうかなさいました?顔が真っ赤ですわよ
茉里絵の声に、雫は慌てて咳払いをした。

な、何でもないわよ!ちょっと暑いだけ!
そう言いながら、震える指でメッセージを打ち始める。

べ、別にあのおっさんに連絡したいわけじゃないんだからね!これはあくまで作戦の一環で…
ブツブツと言い訳をしながら、何度も文面を書き直す。
【宛先:和先生】 『こんにちは、雫です。実は月曜日の夜、生徒みんなでお月見会を計画しています。先生もぜひご参加いただけませんか?ユリシアも喜ぶと思います』

…なんでこんなに丁寧な文章になっちゃうのよ、もう!
頬を膨らませながら、送信ボタンを押す瞬間、雫の指が一瞬止まった。でも、もう後戻りはできない。

…ここからが、本当の勝負よ…!
夕陽が差し込む部屋の中で、少女たちの秘密の週末は、新たな共犯者を巻き込みながら、静かに、しかし確実に運命の日へと向かっていくのだった。
第5章:それぞれの夜、それぞれの想い
土曜日の夜は、静かに更けていく。
和先生の家では、ユリシアが自室のベッドの上で、完成したばかりのお月見団子をうっとりと眺めていた。小皿に乗せられた白い団子は、まるで小さな満月のよう。完璧な丸い形、ほんのり甘い香り。

えへへ…おにいたん♡、きっとびっくりするよね
明後日の夜、バニーの衣装を着た自分が、この団子を差し出す。そして、おにいたん♡が「美味しいよ、ユリ」と言ってくれる。その後は…。

きゃー!
妄想が暴走しそうになり、慌てて枕に顔を埋める。でも、幸せな気持ちは止まらない。
彼女は、窓の外に浮かぶ、まだ少しだけ欠けた月を見上げる。

あと二日…。待っててね、おにいたん♡。私、最高のバニーになって、おにいたん♡の心を、完全に独り占めしちゃうんだから!
彼女の瞳には、勝利の輝きが宿っていた。婚約者としての、絶対の自信が。
一方、月華寮の一室。
雫は、ベッドに寝転がりながら、スマートフォンの画面を眺めて、一人ほくそ笑んでいた。和先生からの返信は、まだ来ない。

ふん、どうせあのおっさん、メッセージの返し方も分からないんでしょ。まったく、こっちは忙しいっていうのに…
でも、5分おきにスマホをチェックしてしまう自分に気づいて、慌てて画面を伏せる。

せいぜい完璧な舞台を用意してあげるわよ。あんたが主役の、滑稽で、最高に愛おしい喜劇の舞台をね
そう呟きながら、彼女の頬は少し赤く染まっている。別に、あのおっさんから返信が来るのを楽しみにしてるわけじゃない。ただ、作戦のために必要だから確認してるだけ。そう、それだけなんだから…!
茉里絵は、日記帳にペンを走らせる。

『親愛なる日記様。親友の盛大な勘違いを、こうして全力でお手伝いできるわたくしは、本当に幸せ者ですわ。月曜日の夜が、ユリちゃんにとって、忘れられない一日になりますように。そして、わたくしにとっても、和先生の新たな一面を拝見できる機会になりますように…』
ペンを置いて、彼女はそっと窓の外を見上げた。
渚先生の自室。
いつもより念入りなトレーニングを終えた彼女は、シャワーを浴びて火照った体を冷ましながら、スマートフォンを手に取った。雫からの返信に、彼女の口元が緩む。

サプライズパーティーですって…?ふふっ、あの子たち、本当に可愛らしいことを考えるのね
しかし、その笑みはすぐに真剣な表情へと変わる。カレンダーアプリを開き、指で日付をなぞる。月曜日は15日。そして、そのちょうど一週間後、9月22日。そこには赤い丸と共に「29歳」という冷たい文字が入力されている。

もう、あと一週間ちょっとで…。三十路手前が、すぐそこに…
鏡に映る自分を見る。鍛え上げた体には自信がある。でも、心の奥底で渦巻く焦燥感は消えない。和先生への想いは、学生時代からずっと変わらないのに、時間だけが過ぎていく。

今朝のウォーキングでの和先生の笑顔…。あんなに優しい顔を、生徒たちにも向けているのよね…
胸がチクリと痛む。ユリシアの無邪気な独占欲、雫の不器用なアプローチ、茉里絵の上品な振る舞い。彼女たちの若さが、眩しくて、少しだけ怖い。

でも…これは、絶好のチャンスかもしれないわ
雫からのメッセージは、ただの「お誘い」ではない。それは、戦場への「招待状」だ。

先生の隣は、同僚である私が一番自然なはず。パーティーでも、私がしっかりとサポートして、先生に安らいでもらわないと
渚は、ぎゅっと拳を握りしめた。

ユリちゃんや雫さんにはまだ早い、大人の女性としての包容力。そして、29歳になる前に、この恋を少しでも前に進めるための覚悟。それを見せてあげるんだから…!
その瞳には、誕生日への焦りと、愛する人への決意が、熱い炎となって燃え上がっていた。
そして、一年生の柚羽は、自分の部屋で正座をしながら、明後日のための準備を確認していた。

えっと…お茶の道具はこれで、お茶請けのお菓子はこれ…
小さくメモを取りながら、彼女は緊張と期待で胸をときめかせている。

ユリシア先輩には申し訳ないけど…でも、雫先輩も茉里絵先輩も、すっごく楽しそうだったし…。私も、先輩たちのために、頑張らないと!
二日後に迫った、偽りのお月見会。
それぞれの想いが交錯する中、運命の夜は、刻一刻と近づいていた。
そして、その裏で、本当の満月(10月6日)に向けて、渚先生の別の計画が静かに進行していることを、まだ誰も知らない。
月は、今夜も静かに、少女たちの想いを見守っている。