2025年9月20日(土曜日)
第1章:決戦前夜と、親友(とも)の檄
九月も下旬に差し掛かった土曜日の夜。渚の部屋のクローゼットは全開にされ、ベッドの上には、この日のために用意されたであろう洋服が、小さな山を築いていた。

だから、どっちがいいと思う、凛ちゃん!?
スマートフォンの画面の向こう側で、幼なじみの霧島凛がやれやれといった風に、しかし優しい笑みを浮かべてため息をついた。

もう、渚ちゃんったら。そんなに悩んで、もう二時間も経ってるわよ?可愛い悩みだけどね

だって、二日後なのよ!?和先生との、初めての二人きりのディナーなの!失敗なんて、絶対に許されないんだから!
二日後に迫った、29歳の誕生日。その事実が、渚の冷静さを少しずつ奪っていた。

はいはい、分かってるわよ。それで、私の可愛い崖っぷちプリンセスは、王子様との決戦に何を着ていくつもりなのかな?
親友からの愛ある揶揄に、渚は

崖っぷちって言わないでよ!
と抗議しながらも、落ち着いたベージュのブラウスを鏡に当ててみた。

まずは、これ。知的で、落ち着いた大人の女性って感じじゃないかな?

うーん、悪くはないけど…それじゃいつもの「渚先生」じゃない?せっかくのデートなのに、職員会議に行くわけじゃないでしょ?

うっ…!じゃあ、こっちはどう!?
次に渚が手に取ったのは、少しだけデザインの凝った、可愛らしいレースのワンピースだった。

あらあら、可愛い。でも、それはユリシアちゃんたちの若さで着こなす服かな。渚ちゃんが着ると、少しだけ…頑張ってる感が出ちゃうかもね
的確すぎる、しかも棘のない指摘に、渚はぐうの音も出ない。ベッドにへたり込み、

もう、どうしたらいいのよぉ…
と弱音を吐いた。

もー、そんなに落ち込まないの。大丈夫、渚ちゃんには渚ちゃんだけの武器があるんだから。そもそも、今回のデートのコンセプトはどう考えてるの?

コンセプト…
渚の脳裏に、先日の「偽りのお月見会」での出来事が蘇る。子供のようにアニメのブルーレイボックスにはしゃぐ、和先生の姿。

…決まってるじゃない
渚は顔を上げ、その瞳に新たな炎を灯した。

私の使命は、あのどうしようもなく子供っぽい、でも愛しい人を、素敵な大人の道へと導いてさしあげること。そう、今の私は、ただの恋する女じゃない。あの人をエスコートする、唯一無二のパートナーなんだから!

…………ぷっ、あはははは!何それ、面白い!渚ちゃん、いつからそんな教育ママみたいなキャラになったのよ!
電話の向こうで腹を抱えて笑う親友に、渚は顔を真っ赤にして反論した。

わ、笑うことないでしょ!私は本気なんだから!例えば、レストランで先生が『僕は、お子様ランチの旗が付いた、クリームソーダに…』なんて言い出したら…

言いそうね、あの人

その時、私が『先生。大人の男性は、食前酒にキール・ロワイヤルを嗜むものですわ』って、優しく教えてさしあげるの!

ふふっ。それで、そのキールなんとかっていうのがどんなお酒なのか、渚ちゃんはちゃんと知ってるのかしら?

うっ…!そ、それは、これから調べるの!
しどろもどろになる渚を見て、凛は愛おしそうに笑った。その声は、どこまでも優しかった。

もう、本当に可愛いんだから、渚ちゃんは。分かった、分かったわよ。あなたのその、健気で、ちょっぴりズレてる作戦、全力で応援してあげる。だとしたら、選ぶ服はもう一つしかないじゃない

え…?

いい、渚ちゃん。中途半端に先生ぶるのも、無理に若作りするのも、今のあなたには必要ないの。今の渚ちゃんが持ってる、最高の武器で戦うのよ

最高の…武器…?

そうよ
凛は、画面の向こうで力強く頷いた。

生徒たちにはない、「大人の女性」としての色気と品格。そして、十年以上も彼を見つめ続けてきた、渚ちゃんだけの「覚悟」。その二つを、その身に纏うのよ
その言葉に、渚はハッとした。そうだ。自分は、誰かと比べる必要なんてなかったのだ。
彼女は、クローゼットの奥から、この日のために用意した、勝負服を取り出した。深紅のワンピース。いつもより少しだけ大胆な、しかし決して品は失わない、大人の女性としての覚悟を込めた一着。
鏡の前で、その服を体に当てる。

…うん、それよ、渚ちゃん。とっても素敵
画面の向こうで、凛が満足そうに微笑んだ。

それなら、あの朴念仁も、あなたをただの「渚先生」じゃなく、一人の美しい「渚」として見るはずよ

…うん
渚は、鏡に映る自分を見つめた。もう、迷いはなかった。

見ていてください、先生。明後日の夜、私は…あなたの隣に立つ、一人の女性になります