ぶりっ子優等生と、見抜いたライバル(第2学年編・23-1)

和先生と学ぶ♡淑女の簿記検定物語第2学年

2025年9月24日(水曜日)

第1章:放課後の赤ペン先生

九月も下旬に差し掛かった、水曜日の放課後。
窓から差し込む西日が、教室の埃を金色に照らし出している。夏休み中の熱気とは違う、どこか知的な静けさの中、雫は柚羽の隣に座り、彼女のノートに広げられた仕訳帳を覗き込んでいた。

「…違う。この『租税公課』は、費用の発生だから借方(左側)でしょ。あんた、また貸借を間違えてるわよ」 「あ…!は、はい!すみません…!」

雫が愛用の赤いペンで、間違った箇所にクルリと印をつける。その手つきは、もうすっかり板についていた。
(本当に、世話の焼ける後輩なんだから…)
口ではそう言いながらも、雫の心は奇妙な充足感で満たされていた。

一年生の時、あれほど苦手で、憎んですらいた簿記。それが今、自分よりさらに苦手な後輩に、教える立場になっている。夏期講習を経て、柚羽は驚くほど成長した。しかし、試験日が近づくにつれて、彼女の真面目すぎる性格が、時折空回りしてしまう。その小さなつまずきを、自分が正しい道へと導いてあげる。その行為が、雫にとって、新しい自信と喜びの源泉になりつつあった。

(見てなさいよ、和先生)
雫は、目の前で必死に問題を解き直す柚羽の頭を、心の中だけでそっと撫でた。
(あんたが一番気に掛けてるこの子を、あたしが立派に育て上げてみせる。そして、私も日商簿記2級に絶対合格して…あんたと対等に、専門的な話ができるパートナーになってみせるんだから)
それは、彼女が手にした、新しい武器だった。

第2章:招かれざる(?)優等生

「あ、雫ちゃーん!柚羽ちゃーん!やっぱりここにいたんだ!」

その、あまりにも能天気で、甘ったれた声。
教室のドアからひょっこりと顔を覗かせたのは、ユリシアだった。その手には、まるでアクセサリーのように、可愛らしいイラストが描かれた簿記のテキストが握られている。

「二人とも、勉強会?えらいねー!実は私も、どうしても分からない問題があって、おにいたん♡を探してたんだけど…職員室にもいなくて…」
ユリシアは、てへ、とわざとらしく舌を出すと、ずかずかと二人の机に近づいてきた。
「ねえ、雫ちゃん、教えてくれないかな?ここなんだけど…」

彼女が指さしたページ。それは、「売上原価の算定」に関する、三分法の基本を問う問題だった。

(…はっ)
雫は、その問題を一瞥しただけで、全てを察した。
これは、夏期講習で和先生が、特に分かりやすく解説していた部分だ。聡明なユリシアが、本気で分からないはずがない。

脳裏に蘇るのは、夏期講習の最終日。和先生に甘えながら、こちらを一瞬だけ見た、ユリシアのあの挑戦的なドヤ顔。
(こいつ…!またやる気ね…!)

これは、質問の形を借りた、巧妙な罠だ。
ここで自分が「分からない」とでも言えば、彼女は「やっぱり、おにいたん♡じゃなきゃダメだぁ」と、和先生の元へ走るだろう。逆に、自分が教えてあげれば、「雫ちゃんでも分かるんだから、おにいたん♡ならもっと分かるはず!」と、彼を褒め称えるための道具にされるかもしれない。

(どこまでも、計算高い女…!)

第3章:仮面の剥奪

「ふーん、この問題ね」
雫は、腕を組むと、値踏みするような目でユリシアを見つめた。
「あんた、本当にこれが分からないの?」

「う、うん…!売上原価の計算なんだけど…。『期首たす仕入ひく期末』っていう呪文は覚えたんだけど、どうして最後に期末の商品を引くのか、理屈がよく分からなくて…」
ユリシアは、潤んだ瞳で必死に訴える。その完璧な「か弱い乙女」の演技に、隣の柚羽は「ユリシア先輩でも、分からないことがあるんですね…」と、すっかり同情している様子だ。

「そう」
雫は、表情を変えないまま、柚羽のノートから赤ペンを抜き取った。
「あんたが夏休みに、目をキラキラさせながら読んでた少女漫画。あれの主人公が、好きな人に手作りのクッキーを渡すシーンがあったわよね」

「え、なんでそれを…!」
「あんたが、あたしの前で読んでたんでしょ」
雫は、ふん、と鼻を鳴らした。
「あの時、主人公が文化祭で売った限定クッキー。あれと一緒よ。売上原価っていうのは、要するに『売れたクッキー』のこと。朝、持ってきた分(期首)と、途中で追加で焼いた分(仕入)を全部合わせたのが、『売ることができたクッキー』の合計でしょ?そこから、『売れ残った分』(期末)を引けば、実際に『お客さんの手に渡ったクッキー』(売上原価)が残る。…これでも、分からない?」

その、あまりにも的確で、しかも自分のプライベートな趣味まで引き合いに出された解説に、ユリシアは言葉を失った。彼女の瞳から、潤んだ演技の色が、すっと消えていく。

「…分かる、わ」

「そう。分かってるのよ、あんたは」
雫は、赤ペンをカチリと鳴らすと、真っ直ぐにユリシアの瞳を見つめた。
「そのぶりっこ、あたしには通用しないわよ。あんたが、あたしたちなんかより、ずっと賢いことくらい、とっくに気づいてるんだから」

第4章:新たな戦場

教室に、気まずい沈黙が流れる。
柚羽は、二人の先輩の間で繰り広げられる、高度な心理戦に、ただただ目を白黒させていた。

最初に沈黙を破ったのは、ユリシアだった。
彼女は、ふっと息を吐くと、それまでの「か弱い乙女」の仮面をかなぐり捨て、不敵な笑みを浮かべた。

「…ふーん。やっぱり、雫ちゃんにはバレてたかぁ」

「当たり前でしょ」

ぶりっ子がバレてふてくされるユリシアと、不満顔で見つめる雫

「そっかー。じゃあ、仕方ないな」
ユリシアは、悪戯っぽく微笑むと、雫の隣の席にどっかりと腰を下ろした。
「でも、おにいたん♡がいないのは事実だし?雫先生が、代わりに教えてくれてもいいんだよ?」

その、あまりにも大胆不敵な切り返し。
雫は呆れるのを通り越して、感心すらしていた。

(本当に、食えない女…!)

「…いいわよ。見ててあげる」
雫は、赤ペンを握り直した。
「その代わり、中途半端な演技で質問してきたら、容赦しないんだからね」

「うん、分かってる!」

机を挟んで、二人の視線が、再び火花を散らす。
それはもう、単なる恋のライバルとしてのそれではない。
同じ相手を想い、そして、同じ頂(いただき)を目指す、好敵手(ライバル)としての、静かで、しかしどこまでも熱い火花だった。

十月十一日の検定試験まで、あと、十七日。
少女たちの、もう一つの夏は、まだ終わらない。