2025年9月2日(火曜日)
第1章:目撃者は、口を噤む
九月二日、火曜日。夏休みの喧騒が嘘のように静まり返った、二学期二日目の昼休み。
柚羽は、図書室で借りた本を抱え、一人廊下を歩いていた。夏期講習のおかげで、あれほど苦手だった簿記の勉強が、少しだけ楽しくなってきた。その成長を、和先生や雫先輩に褒めてもらえるだろうか。そんな淡い期待を胸に抱いていた、その時だった。
職員棟の奥まった廊下。普段はほとんど人が通らない、薄暗い場所。そこで見慣れた二人の人影に、柚羽は思わず足を止め、柱の陰に身を隠した。

だから、おにいたん♡。今日の放課後、駅前のカフェで新作のパフェ、一緒に食べに行こ?
ユリシアだった。彼女は、まるでそれが当たり前であるかのように、和先生の腕に自分の腕を絡ませ、甘えた声で彼を見上げている。その距離は、どんなに親しい関係であっても、学院内では控えるべきもので…
和先生は、辺りを見回してから、少し困ったように、しかしどこか嬉しそうに微笑んでいる。

こら、ユリシア。学院では『先生』と呼びなさいと言っているだろう。誰かに見られたらどうするんだ
その声は、咎めるというより、親しい相手への優しい注意のように、柚羽の耳には聞こえた。

えー、だって、誰も見てないよー?おにいたん♡は心配しすぎなんだから
ユリシアは甘えるように頬をすり寄せる。
柚羽は息を呑んだ。ユリシア先輩と和先生の特別な関係は薄々感じていたけれど、ここまで親密だったなんて…。そして、雫先輩や茉里絵先輩、渚先生まで、先生のことを特別に想っているのを知っている柚羽には、この光景が少し複雑に映った。
まるで世界に二人だけみたいに、親密な空気を漂わせるユリシアと和先生。でも、こんなに堂々と…他の人の気持ちは、どうなるんだろう。
柚羽は、複雑な気持ちを抱えたまま、誰にも気づかれないように、そっとその場を離れる。足早に寄宿舎へと向かう彼女の胸の中には、見てはいけないものを見てしまったという戸惑いと、信頼する先輩たちのことを思う小さな心配が渦巻いていた。
第2章:偽りの平穏と、見抜かれた動揺
その日の夕方。寄宿舎「月華寮」のロビーで、柚羽はソファに座って雑誌を読んでいた雫の姿を見つけた。いつもならそのまま挨拶をして通り過ぎるところだが、今日は何となく、雫先輩に話を聞いてもらいたくなった。

あ、あの…雫先輩

ん?なあに、柚羽
雫は読んでいたファッション誌から顔を上げ、少しだけ気だるそうに返事をした。
柚羽は、言葉を選びながら、先ほど職員棟の廊下で目撃した光景を、おずおずと雫に伝えた。ユリシアが、和先生の腕に絡みついていたこと。「おにいたん♡」と呼んで、甘えていたこと。そして、何だかとても特別な関係に見えたこと…。
話しながら、柚羽は雫先輩の表情を注意深く観察していた。何か変化はないだろうか、驚いたりしないだろうか、と。
雫の顔が、一瞬強張ったのを、柚羽は見逃さなかった。でも、すぐにいつもの表情に戻って、「ふーん」と、興味がなさそうに鼻を鳴らした。

今に始まったことじゃないわよ、あいつのああいうのは。気にするだけ無駄よ
そう言って、再び雑誌に視線を落とす。でも、その手が微かに震えているのを、柚羽は見逃さなかった。

でも…雫先輩

なによ
雫の声が、少しだけ尖った。

雫先輩も、和先生のこと…

はぁ?何それ、意味分からないんだけど
雫の反応は、明らかに動揺していた。普段の雫先輩なら、もっと堂々としているのに。

それより、あんた。簿記の勉強は進んでるの?夏期講習でやったところ、復習しないとすぐに忘れるわよ
話題を逸らそうとする雫に、柚羽は少し切ない気持ちになった。やっぱり、雫先輩も和先生のことを…。

はい、頑張ってます!分からないところがあったら、また教えてください

そうね…分からないことがあったら、いつでも聞きに来なさい
柚羽がロビーを去っていく。その小さな背中を見送りながら、雫は読んでいた雑誌を、パタン、と閉じた。
その瞬間、彼女の顔から、全ての演技が消えていた。
ただ、その青い瞳の奥では、静かだが、どうしようもなく激しい嫉妬の炎が燃え上がっていた。
第3章:女優の仮面、その下で
柚羽の足音が完全に聞こえなくなった後。雫は、ゆっくりと立ち上がると、誰もいないロビーの窓から、夕焼けに染まる空を見つめた。

あいつ…!
脳裏に蘇るのは、夏期講習での出来事。あのピンク色の貝殻のストラップ、日焼けした首筋、そして何より許せなかったのは—茉里絵に質問している時に見せた、あの挑発的なドヤ顔。

あの時から分かってたのよ…二人で秘密のデートをしてきたって。みんなに内緒で抜け駆けするなんて、いい度胸じゃない…!
雫の手が、思わず拳になる。あの貝殻は、きっと二人だけの秘密のデートで手に入れたもの。そして今日柚羽が見たのは、その「成果」を見せつけるかのような親密な光景…。
春の「お花見の約束」。あれは、友人関係を壊さないための、ギリギリの停戦協定だったはず。しかし、ユリシアは、その協定の抜け穴を突き、一気に勝負を仕掛けてきたのだ。

上等じゃない…!でも…
怒りで、腹の底が煮え繰り返るようだった。同時に、胸の奥がズキズキと痛んだ。和先生の優しい笑顔を、独り占めするユリシア。自分には絶対に向けてもらえない、恋人を見る時の表情。

くそ…なんで、なんで私は…
雫は唇を噛みしめた。でも、ここで感情的になってはいけない。女優として培った経験が、彼女に冷静さを取り戻させる。

あんたの武器が、子供っぽい甘え声と、計算ずくのボディタッチだっていうなら…
雫は、ふっと息を吐くと、不敵な笑みを浮かべた。

いいわ、上等よ。あんたが子供っぽい秘密のデートで気を引くなら、あたしは正々堂々、この学院で圧倒的な実力と魅力を見せつけて、どっちが”隣にいるべき女”か、思い知らせてあげるんだから!
それは、学力での圧倒的な実力。そして、誰も知らない、グラビア女優としての隠された魅力。ユリシアにはない、大人の女性としての武器を、雫は持っている。
第4章:静かなる反撃の、始まり
その夜。雫は、茉里絵との自室には戻らず、柚羽の部屋のドアを、静かにノックした。

…雫先輩?こんな時間に…
驚いた顔でドアを開ける柚羽に、雫は数冊の参考書とノートを抱えたまま、ぶっきらぼうに言った。

あんた、今日の復習、終わったの?

い、いえ、まだ途中ですけど…

そう。ちょうどよかったわ。あたしも2級の勉強で行き詰ってるところがあったから、気分転換に付き合いなさい。あんたの分からないところ、見てあげる

え…!いいんですか!?でも、なんで急に…
柚羽の素直な疑問に、雫は少しだけ表情を和らげた。

別に深い意味はないわよ。ただ…あんたみたいに素直に頑張ってる子は、嫌いじゃないの。それに
雫は少し声を落とした。

今日のあんたの話、ちょっと考えさせられたから
机の上に広げられた柚羽のノート。その几帳面な文字を見ながら、雫は隣に座って、一つ一つ丁寧に、彼女が躓いている部分を解説し始めた。普段の雫先輩とは違う、優しく丁寧な教え方に、柚羽は目を丸くした。

雫先輩…すごく分かりやすいです。教え方、お上手なんですね

まあね。人に教えると、自分の理解も深まるし。Win-Winってやつよ

見てなさいよ、和先生
雫は、目の前で必死に自分の言葉を理解しようとしている健気な後輩の頭をそっと撫でた。

甘ったれた声で気を引くのが、あいつのやり方なら。あたしは、圧倒的な実力と面倒見の良さで、あんたの心を掴む。そして…
雫は、自分のスマホを取り出すと、何気なく画面をスクロールした。そこには、まだ誰にも見せていない、最近のグラビア撮影の写真が数枚保存されている。大人っぽく、それでいて清楚な魅力を表現した、プロの技術が光る作品たち。

…これだけじゃ、足りない
ユリシアの、あの計算された無邪気さの前では、ただ美しいだけの写真は武器にならない。もっと、あの男の心の奥深くに、直接突き刺さるような、あたしだけの何か…。
そう思いながら指を滑らせた、その時だった。一枚の写真に、目が留まる。 先日の撮影で、遊び心で挑戦した、メカニカルなコスチュームを纏った自分の姿。
その瞬間、脳裏に、雪の夜の光景が鮮やかにフラッシュバックした。 妹の美咲が、宿題をしながら無邪気に口にした、あのアニメの名前。『鋼鉄天使ミカ』。
そして、その名を聞いた瞬間の、和先生の顔。 子供のように目を輝かせて、身を乗り出した、あの男の無防備な顔。

実はおじちゃんもロボ娘大好きなんだ!
バニー好き?そんなのはもう、ユリシアにだってバレている、表層的な情報。 でも、ロボ娘への熱い想いは…美咲と、あたしと、そしてあの人だけの、ささやかで、特別な夜の記憶。

…そうよ
雫の唇の端が、確信と共に吊り上がった。

これよ。これこそが、ユリシアには絶対に真似できない、あたしだけの切り札

あんたが本当に困った時、最後に頼りたくなるのはどっちの女か。勉強でも、女性としての魅力でも、思い知らせてあげるんだから
外は、もうすっかり夜の闇に包まれている。
しかし、小さな読書灯に照らされた部屋の中では、二人の少女の、静かで、しかし確かな闘志が、夏の終わりの夜を、熱く照らしていた。
十月十一日の検定試験まで、あと一ヶ月と少し。
少女たちの、もう一つの夏は、まだ終わらない。