この指が未来を打つ――和先生の“電卓教室”と雫のドヤ顔

第2学年雫の日記

「特別講義、開講です」

風通しのよい6月の午後。商業科の教室に、生徒たちのざわめきが広がっていた。

「……今日の補講って、簿記じゃないの?」
「いや、先生が“道具の話をする”って言ってたような……」

その中心に、ずらりと並べられた電卓たち
コンパクトなものから業務用サイズのものまで、ずっしりと存在感を放っている。

前に立つ和先生が、ゆったりと眼鏡のブリッジを押し上げ、微笑んだ。

「皆さん、こんにちは。今日は簿記ではなく――“武器”の話です」

ユリシアの目がキラリと光る。「武器……?」

「簿記における最大の武器。それは、この電卓です。今日は、ただの道具としてではなく、皆さんの右手の延長としての電卓について、しっかりと学んでもらいます」

和先生の“電卓道”

「たとえば“3キーロールオーバー”という機能、知っている人?」

教室がしんと静まる。指一本、上がらない。

「ふふ、想定通りですね。これは“速く打ったときに3つまでのキー入力を順に記憶する”という機能です。ですが、これに頼りすぎてはいけません」

黒板に「正確さ>速さ」の文字が書かれる。

「まずは――**ゆっくりでいいから、正確に。**それがプロへの第一歩です」

柚羽は思わず、こくりと頷いた。

(ゆっくりで……いいんだ。私でも、ちゃんと学べるってこと……)

「それと、“メモリー機能”の使い方。『M+』『MRC』『CM』……これを知るだけで、伝票の合計が何倍もスムーズになります。今日から皆さん、使いこなせるようになってください。

先輩の実演

「さて、実演を……雫さん。お願いできますか?」

「……えっ、あ、私ですか?」

突然のご指名に戸惑うも、雫の口元がキュッと引き締まる。

(ふふっ……ついに来たわね、この瞬間!)

椅子をスッと引いて立ち上がると、スタスタと教壇横の特設デスクへ。
彼女の右手が、すっと電卓の上に構えられた。

「去年の冬、雫さんは僕とマンツーマンで補講を受けて……今では僕の打鍵音より速いこともありますよ」

「ちょっ、それは……っ!////」

でも――
その瞬間、生徒たちの視線が一斉に集まった。

(見てなさいよ……私の“実力”!)

カチ、カチカチ、カチカチカチカチカチ――ッ!!

教室中に響き渡る打鍵音。
雫の指がまるでダンサーのように、リズムよく電卓のキーを叩き続ける。

「す、すごい……!」「めちゃ速い……!」
「音が違う……まるで音楽みたいだ……!」

柚羽は隣で目を見張り、茉里絵は思わず「お見事ですわ!」と小声で賞賛。

(やば……気持ちいい……っ!)
(もう、私がこのクラスの“電卓クイーン”ってことでいいんじゃない?)

和先生のツッコミ

「――はい、そこまで!」

和先生が手を軽く上げて制した。雫は息を切らし、胸を上下させていた。

「お見事、雫さん。素晴らしいスピードと正確さです。……ただし」

先生は一呼吸置いて、微笑を浮かべながら続ける。

「**雫、そんなに大きな音を立てて打つと、かえって指の動作が大きくなって速度が落ちてしまうよ。**だからね、**もっと“指を横に、平面的に滑らせる”ように動かしていくほうが早くなるから……」

そして、いたずらっぽく一言。

あまり調子に乗らないこと(笑)

教室、爆笑。

「は、はぁっ!?////」
雫は顔を真っ赤にして電卓を抱え込んだ。

(ちょ、ちょっと先生! そんなみんなの前で~~~! うぅ……でも……嬉しい……)

ユリシアがそっと柚羽の耳元で囁く。

「雫ちゃん、すっごく頑張ってたんだよ。去年の冬……補講終わったあと、泣きながらキーボード打ってたって、先生こっそり言ってた」

「……そっか。雫先輩も、最初は私と同じだったんだ……」


休み時間、柚羽はそっと、電卓に指を添えた。

(あせらなくていい。ゆっくり、確実に。メモリー機能も、ひとつずつ覚えていこう)

横から聞こえる、雫のちょっと照れた声。

「……ま、参考になったでしょ? あれくらい、いつでもやって見せるから」

「はい!とても格好良かったですっ!」

「へ、へぇっ!?そ、そうよね!? ま、当然だけどっ!////」

教室の一角に、小さな勇気と優しい笑いがあふれていた。

✦エピローグ:雫の日記 〜だれにも見せないヒミツのページ〜

⁂ きょうの夜/雫の部屋/机の上にひとりきり ⁂

日記って苦手。
でも今日は、なんか……書きたくなった。

――放課後、簿記の補講。
和先生の“電卓セミナー”で、いきなり私の名前が呼ばれた。

「雫さん、お願いします」って。
な、なによその言い方!
まるで、期待されてるみたいじゃない……!

で。わたし、調子に乗った。
カタカタカタカタカタカタ……っ!って。
あんなに夢中で叩いたの、はじめてかも。
……いや、去年も補講で同じくらいやってたけど、あれは泣きながらだったし。あれとはちょっと違う。

教室中の視線。
「すごい」「速い」「雫、カッコいい」って……
言われた気がして、胸がドキドキ止まんなくて……。

でも――でもね。

いちばんドキドキしたのは、和先生のひとこと。

「雫さんは、僕より音が速いときもありますよ」

…………あれ、ズルい。
なんでそんなに、あったかい声で言うの……。

あれだけで、もう……
今まで頑張ってきた自分、全部救われた気がした。

去年、電卓に全然慣れなくて、
「自分って向いてない」って思って、
悔しくて、教室の隅で人知れず泣いたときのこと。

和先生、ちゃんと見てたんだ。
覚えててくれたんだ。

調子に乗った私に、
「平面に滑らせるように」って注意してくれたのも、
なんか……ちょっとだけ、照れ隠しだったのかなって思った。

(ち、ちがうかもしれないけどっ!?)

……ああもう。
また顔が熱くなる。
電卓叩いた指先まで、熱が伝わってる気がする。

これ、誰にも見せない。
見せたら、ぜったい笑われる。

でも書いておく。忘れたくないから。

――和先生に「雫さん」って呼ばれたときの気持ちも。
――褒められたあとの、胸の中の花火みたいな感じも。

きょう、わたしちょっとだけ、
自分のこと、好きになれた気がする。

💬 おしまい。
明日は指の動き、ちょっと静かにしてみよう。
……いや、まだちょっとだけ、目立ってたいかも(笑)