ある春の放課後――。
「じゃあ、今日はユリシアさんと如月さん、教室の掃除当番お願いね」
クラスメイトの声を背に、モップを手にしたユリシアは、ふっと小さく息を吐いた。
(まさか、よりによってこのタイミングで柚羽さんと二人きりになるなんて……)
静まり返った教室で、窓から差し込む柔らかな日差しが、磨かれた床にきらきらと反射している。
カタン。
モップを滑らせる音だけが、教室に響いていた。
「えっと……ユリシア先輩?」
「……なあに?」
思ったより強く出てしまった声に、自分でも驚く。
すぐに「しまった」と思いながら、ユリシアは慌てて笑顔を作った。
「その、先日の模擬授業……本当に素敵でした。ユリシア先輩の話、すごく心に残って……」
「あ、うん……ありがとう」
(悪い子じゃないのよね、柚羽さん。でも……)
目の前の柚羽は、穏やかで、礼儀正しくて、そして――眩しかった。
「……ユリシア先輩って、先生のこと、ずっと前からご存知なんですよね?」
その言葉に、ユリシアの手がぴたりと止まった。
「うん、ちっちゃい頃から。おにいたんは、私にとって――」
その先の言葉を紡ぐとき、声には自然と熱が宿っていた。
「……誰にも譲れない人、なんだ」
柚羽は驚いたように目を見開いたが、すぐにふんわりと微笑んだ。
「……素敵です。そうやって、真っ直ぐ誰かを想えるのって。羨ましいです」
(この子は……)
ユリシアは、まっすぐに想いを伝えてくる柚羽に、どこか心を揺さぶられるのを感じていた。
「でも……私、先生のこと、すごく尊敬してるから」
「……え?」
「だから、ライバルにしてもらえるように、もっともっと頑張りたいんです。今の私じゃ全然、足りないから」
その言葉に、ユリシアはなぜか胸がきゅっと締めつけられた。
(ライバル……なんだ)
柚羽はそう言って、再び床を黙々と拭き始める。
(私は、いつの間にか“上級生”という立場に安心してたのかもしれない)
ユリシアは、静かに息を吐きながら、窓の外に視線を向けた。夕焼けの空に桜の花びらが舞っている。
――きれいな春の日。でも、心の中は少しだけざわついていた。
その夜。
ユリシアは自室の机に向かい、そっと日記を開いた。
(おにいたんに近づく誰かに、こんなに動揺するなんて……)
けれど同時に、胸の奥では不思議な感情も芽生えていた。
(……でも、嫌いになれない。むしろ――)
ペンを走らせながら、彼女はこう綴った。
『如月柚羽さん。わたし、ちゃんと向き合わなくちゃ。
きっと、この春は“勝手に独り占めできる”季節じゃない』
窓の外では、夜風に揺れる八重桜が静かに見守っていた。
まるで、少女の決意を祝福するように。