プロローグ:試験開始前の静寂
会場となったチューエル淑女養成学院の第3教室は、異様なほどの静けさと熱気に包まれていた。参考書を閉じる音、筆記用具を確かめる音、そして緊張した息遣いだけが、そこにあった。

皆様、落ち着いて…。これまで努力してきた自分を信じましょう

は、はいっ!茉里絵先輩!
二人の隣で、ユリシアは「へっちゃらだよ!」と明るく微笑んだ。

だっておにいたん♡が応援してくれてるもん!私、絶対合格するんだから!
その声はいつも通り元気いっぱいだったが、きつく握りしめられたシャーペンが、彼女の内心のプレッシャーを物語っている。その笑顔は、自分自身に言い聞かせるための、精一杯の強がりだったのかもしれない。
そんなユリシアの様子を横目に、雫は深く息を吸い込んだ。

心の中で毒づきながらも、雫の脳裏に浮かぶのは、和先生が作ってくれた対策プリントに書かれていた言葉だった。
『雫なら必ず理解できる』
『よく頑張った。この調子だ』
あの人の言葉が、今は何よりも心強いお守りだった。
第1章:3級試験 – それぞれの朝
午前9時20分。チューエル淑女養成学院の第3教室には、すでに26人の受験生が着席していた。
教室の前方には、主任監督官の和先生と補助監督官の渚先生が立っている。二人とも普段より少し緊張した表情で、商工会議所から届いた厳重に封印された試験問題の箱を確認していた。

渚先生が一人ひとりの確認を行う中、受験生たちの表情は様々だった。
雫は最前列の席に座り、余裕の表情で筆記用具を整えている。夏から続けてきた猛勉強の成果に、確かな自信があった。3級なら、もう目をつぶっても解けるくらいだ。

ユリシアと茉里絵は並んで座っていた。ユリシアは相変わらず「えへへ〜」という感じで、少し緊張しているようには見えるが、基本的にはリラックスしている。


そして、柚羽は…
教室の中ほどの席で、顔色が真っ青になっていた。手が震えて、鉛筆を落としてしまう。

9時40分。和先生が教壇に立った。

それでは、これより日商簿記検定3級の試験を開始します。試験時間は60分。10時から11時までです。不正行為は一切認められません。携帯電話の電源は必ず切ってください
厳粛な雰囲気の中、和先生は封印された問題用紙の箱を開封する。その瞬間、教室の空気がピンと張り詰めた。
第2章:3級試験 – 60分の戦い
10時00分。「始め!」の合図とともに、一斉に問題用紙をめくる音が教室に響いた。
雫は素早く全体を見渡す。第1問の仕訳問題、第2問の補助簿の問題、第3問の試算表作成…予想通りの構成だ。

サラサラと鉛筆を走らせる雫。15分で第1問を終え、第2問へ。
一方、ユリシアは…

首をかしげながらも、なんとか解き進めていく。時々、和先生の方をチラッと見るが、試験中なので助けてもらえるわけもない。
茉里絵は落ち着いて問題に取り組んでいた。優雅にペンを走らせる姿は、まるで手紙を書いているかのよう。

そして柚羽は…
だめだ、だめだ…手が震えて字が書けない…!
過呼吸気味になりながら、必死に問題を読もうとするが、文字が頭に入ってこない。雫に教わったことを思い出そうとするが、パニックで何も思い出せない。

それでも、震える手で鉛筆を握り、なんとか解答欄を埋めていく。正解かどうかは分からない。ただ、空欄にしたくない一心で。
試験開始から45分。雫はすでに全問解き終え、見直しに入っていた。
11時00分。「やめ!」の声が響く。

ユリシアと茉里絵は、なんとか全問解答できたようだ。柚羽は…顔面蒼白のまま、答案を提出した。
第3章:午後の決戦 – 2級試験
13時30分。同じ教室で、今度は5人だけの2級試験が始まった。
雫の他に、2年生2人と3年生2人。皆、真剣な表情だ。

2級試験を開始します。試験時間は90分です。頑張ってください
問題用紙を開いた瞬間、雫はまず全体を確認した。
第1問は仕訳…よし、これなら大丈夫。第2問は…連結精算表!?
第1問の仕訳問題から着手する。リース取引、有価証券の売却、外貨建取引…2級レベルの複雑な仕訳だが、なんとか解き進める。
15分で第1問を終え、第2問へ。そこで雫は壁にぶつかった。
連結精算表の作成問題。
親会社P社が子会社S社の株式を70%取得、支配獲得から3年目の連結…投資と資本の相殺消去、のれんの償却、非支配株主持分、内部取引の消去…

タイムテーブル…まず支配獲得時点から整理して…あれ?当期純利益の配分は…
計算用紙にタイムテーブルを書き始めるが、途中で混乱してきた。
支配獲得時の資本金が…剰余金の変動が…のれんの未償却残高は…
頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。それでも、部分点だけでも取らなければ。

完璧な解答は諦めて、分かる部分だけを埋めていく。空欄を作りたくない一心で、計算できる箇所を必死に探す。
第3問は商業簿記の決算整理後残高試算表から財務諸表を作成する問題。ここに税効果会計が含まれていた。
税効果会計…!これは和先生に何度も教わった!
その他有価証券の評価差額、貸倒引当金の損金算入限度超過額…「繰延税金資産は将来の税金が安くなる権利」という和先生の説明が蘇る。

損益計算書と貸借対照表を作成しながら、税効果の処理を丁寧に行う。ここで少し自信を取り戻した。
第4問は工業簿記の費目別計算と部門別計算の仕訳問題。材料費、労務費、経費の振り分け…これも基本的な内容なので、着実に解いていく。
そして第5問。雫は問題文を見て、顔が青ざめた。
標準原価計算における差異分析。
問題文の形式が独特で、読み解くのに時間がかかる。予算差異、能率差異、操業度差異を求めよ…

計算用紙にシュラッター図を描こうとするが、操業度差異の部分がうまく描けない。縦軸と横軸の関係が混乱してくる。
予算差異は実際発生額と予算額の差…能率差異は…ダメだ、分からない…
図を書いては消し、また書き直す。問題文を何度も読み返すが、この独特な出題形式に戸惑って、時間だけが過ぎていく。

焦れば焦るほど、思考は空回りし、視界が滲んでくる。もうダメかもしれない。あの人の期待を、裏切ってしまう…。
心が折れかけた、その瞬間。
ふと、和先生の声が頭の中で響いた。
『ここは試験に出やすいから、もう一度確認しておこう』
そうだ。あの時、職員室で、彼はこの論点を丁寧に教えてくれたじゃないか。

雫は一度目を閉じ、大きく深呼吸した。そして、もう一度問題文と向き合った。
残り10分。第5問はほとんど手つかずだ。

震える手で、分かる範囲の計算式を書き込んでいく。
15時00分。「やめ!」
鉛筆を置いた瞬間、全身から力が抜けた。
第4章:試験後の涙
試験終了後、雫は誰とも話さずに教室を出た。
月華寮への道の途中、学院の裏庭にある大きな桜の木の下で、雫は立ち止まった。
もう限界だった。
ダメだ…絶対落ちた…
膝から崩れ落ちるように、木の根元に座り込む。そして、声を殺して泣き始めた。
「うっ…うぅ…」
必死に声を押し殺しているが、肩が震えている。涙が止まらない。
和先生にあんなに教えてもらったのに…期待してくれてたのに…私、ダメだった…
「ごめんなさい…和先生…ごめんなさい…」
小さく呟きながら、膝を抱えて泣き続ける。秋の冷たい風が、涙で濡れた頬を撫でていく。
その頃、職員室では…




和先生は窓の外を見た。夕方の光が、学院の庭を金色に染めている。




和先生の言葉に込められた意味を、渚は彼女なりに察した。雫が簿記に込めた想い、それは…


二人は無言で窓の外を見つめた。
どこかで、一人の少女が、恋と挫折の涙を流していることも知らずに。
2週間後の合格発表まで、長い長い日々が始まる―。