2025年9月27日(土曜日)
第1章:知的な午後のはじまり
秋の陽射しが穏やかに差し込む土曜日の夕刻。チューエル学院の図書館は、平日の喧騒とは打って変わった静寂に包まれていた。
「し、失礼します」
渚は教材の入ったバッグを抱えて、そっと図書館に足を踏み入れた。和先生が既に到着しているのを確認すると、胸の鼓動が少し早くなる。
(落ち着いて、渚。今日は普通に教材研究をするだけなんだから)
しかし、つい先日の誕生日ディナーでの出来事が頭をよぎり、頬がほんのり温かくなってしまう。
「あ、渚先生。お疲れ様です」
和先生は資料から顔を上げると、慌てたように立ち上がろうとした。
「あ、い、いえ!座ったままで結構です。私も失礼しますね」
渚は手をひらひらと振りながら、和先生の向かい側にそっと腰を下ろした。テーブルに教材を広げながら、ちらりと和先生の横顔を見つめる。
(こうして二人でいると、やっぱり緊張しちゃう…でも、嬉しい)
これは、誕生日ディナーの夜に二人で決めた新しい習慣だった。これまでのウォーキングに代わる、もう少し実用的な時間の過ごし方。お互いの専門分野について語り合い、教材研究を共にする。
「せ、先生、この統計データ、興味深いですね」
渚が震える手で資料を差し出したのは、全国の簿記検定合格率をまとめた資料だった。
「ああ、それですか。今年は特に二級の合格率が下がっているんです。出題傾向が変わったので…」
和先生は眼鏡を押し上げながら説明を始める。渚は、その真剣な表情を見つめながら、小さく頷いていた。
(こういう時の先生、本当に素敵…)
第2章:専門を超えた理解
「渚先生の保健の授業でも、統計は重要ですよね?」
「は、はい!特に生活習慣病の予防では、データの見せ方で生徒たちの理解が…あ、えっと…」
渚は自分が用意した教材を取り出そうとして、うっかり資料を床に落としてしまった。
「あ、すみません!」
「大丈夫ですか」
和先生が資料を拾い上げてくれる。その際、指先がほんの少し触れて、渚はビクッと小さく身を震わせた。
「あ、ありがとうございます…」
「い、いえ…」
二人とも頬を少し赤らめながら、気まずそうに資料を見つめている。
渚が恥ずかしさを振り払うように、グラフの説明を始めた。色使いや数字の提示方法について、自分なりの工夫を熱心に語る。
「それは面白い発想ですね。僕の簿記の授業でも参考にさせてもらえそうです」
和先生はそう言いながら、ふと渚の表情に見入ってしまった。
専門的な話をしている時の彼女の瞳の輝き、少し頬を上気させながら一生懸命に説明する姿。
「先生…?聞いてますか?」
渚が不思議そうに首をかしげる。
「あ、す、すまない。君が、あまりに楽しそうに話すものだから、つい見とれてしまって…」
和先生は慌てたように視線を逸らした。自分でも驚くほど正直な言葉が口から出てしまったのだ。
「み、見とれて…?」
渚の頬が真っ赤に染まる。
「い、いえ…その…」
和先生も同じように顔を赤らめながら、気まずそうに資料を見つめている。
二人とも恥ずかしさで、しばらく何も言えなくなってしまった。
和先生のその言葉に、渚の心は温かくなった。
(私の…私の専門性を認めてくれてる。それに、見とれてしまうなんて…)
「わ、私でよろしければ、いつでもお手伝いします!」
思わず声が大きくなってしまい、渚は慌てて周りを見回した。幸い、図書館には他に人がいない。
「ありがとうございます。心強いです」
和先生の優しい笑顔に、渚の胸がきゅんとした。
第3章:重なる指先と、止まらない鼓動
「この本、参考になりそうですね」
渚が立ち上がり、高い書架の本に手を伸ばそうとした時、和先生も同じ本に気づいて手を伸ばした。
「あ、それは私も気になって…」
二人の手が、同時に同じ本の背表紙に触れる。
今度は、さっきとは全く違った。
先ほどの偶然の接触とは比べ物にならないほど、お互いを強く意識した瞬間。渚の心臓は、今度こそ本当に止まりそうになった。
「あ…!」
渚の息が詰まる。手を引こうとするが、体が固まって動かない。
和先生も同じだった。今度は、偶然ではない。二人とも、この瞬間を意識している。
「渚先生…」
和先生の声は、先ほどよりもずっと深く震えていた。そして、渚が手を引こうとするのを、今度ははっきりと止めた。
「あ…せ、先生…」
渚の全身に、電気が走ったような感覚が広がる。頬は燃えるように熱く、足の力が抜けそうになった。
(だめ…こんなに意識しちゃ…でも、でも…)
「僕は、君とこうして過ごす時間が…とても好きです。そして…」
和先生は、ゆっくりと渚の手を自分の手で包み込んだ。
(渚…)
心の中では、もう敬語も何もない、ただ純粋な想いが溢れていた。
和先生は視線を泳がせながら、まるで授業で難しい公式を解説するかのように、ぼそぼそと、しかし必死に語り始めた。
「…君といると、その…調子が狂うんだ。教師として、しっかりしなければと思うのに、頭がうまく働かなくなる。心拍数も、平常時と比べて明らかに高い。これは、統計的に見ても異常な状態で…」
渚は、そんな和先生の不器用な告白を、息を詰めて聞いていた。
「…つまり、だ。私が言いたいのは…君と過ごすこの時間が、今の私にとって、何よりも大切だということだ。…すまない、上手く言えん」
その、あまりにも和先生らしい、統計と数字で自分の気持ちを説明しようとする必死さに、渚の心は溢れそうになった。
「せ、先生…」
(…君。学生だった頃、先生はいつも私をそう呼んでいた。でも、今、彼の口から発せられたその響きは、あの頃とは全く違う。まるで、初めて名前を呼ばれた少女のように、心臓が甘く締め付けられる…)
声が震えて、最後まで言葉にならない。でも、その震えが、すべてを物語っていた。
二人の手は、本を挟んで重なったまま。不器用で、ぎこちないけれど、これ以上ないほど誠実な時間が流れていた。
第4章:静かな誓い
やがて、二人はどちらからともなく、そっと手を離した。再び向かい合って座ると、お互いに恥ずかしくて、しばらく目を合わせることができない。
「ら、来週の検定、生徒たちは大丈夫でしょうか」
渚が、なんとか絞り出した声で尋ねる。
「そうですね…みんな頑張っていますから。特に、ユリシアと雫は…」
和先生がそこまで言いかけて、ふと口を閉じた。渚の前でユリシアの名前を出すことに、躊躇いを感じたのだ。
渚は、そんな和先生の心境を察したように、少し寂しそうに、でも理解するように微笑んだ。
「先生は、本当に生徒思いですね。みんな、先生のことを慕っています」
(ユリシアさんのことも、大切に思ってらっしゃるのよね…)
そう思うと胸が少し痛んだが、それでも和先生の優しさを愛おしく思う気持ちの方が、ずっと大きかった。
「…渚」
今度は、はっきりと、彼は彼女の名前を呼んだ。
「は、はい」
「君といると、私は…本当の自分でいられる気がする」
「わ、私もです。先生といると、私は…私でいられます」
渚の声は小さく震えていた。嬉しくて、恥ずかしくて、でも、確かに幸せだった。
夕日が図書館の窓を染める頃、二人はまだそこにいた。時々言葉を交わしては頬を染め、静かに作業をしながらもお互いを意識している。
でも、確実に言えることがあった。
この時間は、二人にとって、どんなデートよりも価値のある、大切な時間になっているということ。
図書館の静寂の中で、初々しい愛の形が、ゆっくりと、でも確実に育まれていた。