カチャリ、と玄関のドアが開く音よりも早く、ユリシアはパタパタと廊下へ駆け出した。 学院から先に帰宅し、夕食の準備をしながらも、気持ちはまったく落ち着かなかったからだ。
学院での、あの光景が、何度も頭をよぎる。 雫ちゃんを慰める、おにいたんの優しい手。 柚羽ちゃんに「私の力不足だ」と謝る、悔しそうな顔。 そして、 (…あの女(綾香)に、手を握られて、真っ赤になってた、あの顔…!)
おにいたんの心が、ユリシアの知らないところで、どんどん動かされてる。 不安で、胸が張り裂けそうだった。
「お、おにいたん!おかえりなさい!」 「…ああ、ただいま。ユリシア」
廊下の薄暗い明かりの中、帰ってきたなごみ先生(おにいたん)は、ユリシアの顔を見ると、ほっとしたように笑った。 でも、その笑顔は、いつもより少しだけ疲れていて、どこかぎこちなかった。
(…やっぱり、疲れてる。…あのこと、気にしてるんだ…) ユリシアの胸が、チクリと痛む。
「あ、あのね!夕ご飯、もうすぐできるから!今日はね、おにいたんの好きな…」 「ユリシア」
ユリシアが、わざと明るい声でまくし立てるのを遮るように、おにいたんが静かに彼女の名前を呼んだ。 そして、後ろに隠すように持っていた右手を、そっとユリシアの目の前に差し出した。
「…え…?」
そこに現れたのは、淡いピンク色や白が混じった、可憐なコスモスの花束だった。
「これ…お花…?」 「ああ。帰りに、花屋に寄ってきたんだ」
「ど、どうして…?」
おにいたんは、花束を持っていない方の手で、ユリシアの頭を、くしゃりと撫でた。
「…決まってるだろ」 「え…」 「…3級合格、本当におめでとう、ユリシア」
「…っ!」
その声は、学院で聞いた、他の生徒たちにも向けられていた「先生」の声じゃなかった。 低くて、優しくて、ユリシアだけをまっすぐに見つめてくれる、「おにいたん」の声だった。
「が、学院でも…言ってくれたよ…?」 「あれは、教師としてだ」
おにいたんは、ふぅ、と小さく息をつくと、少し照れくさそうに言った。 その表情は、廊下で綾香ちゃんに詰め寄られていた時の動揺とは違う、穏やかなものだった。
「…学院じゃ、言えなかったからな。…俺は、お前が誰よりも頑張ってたの、ちゃんと知ってたぞ」 「え…?」
「毎日、俺の分まで家事を全部やって…その合間に、寝る時間も削って、必死にテキストを開いてたろ」 「…おにいたん…見てて、くれたの…?」
「当たり前だ」
おにいたんの大きな手が、ユリシアの頭を、今度はぎゅっ…と、まるで宝物を抱きしめるみたいに、強く、優しく抱きかかえた。
「柚羽や雫たちのことも、教師としてもちろん心配だ。…だが、ユリシアは『家』でも『学校』でも、二重に頑張ってた。本当に、偉い」
「…あ…」
「よく、あんなに全部両立させたな。本当に、頑張った」
「…っ、おにいたん…!」
その言葉が、ユリシアの心の中の、冷たく固まっていた部分を、優しく溶かしていった。 学院で感じた、不安と焦り。 (おにいたんは、私のこと、ちゃんと見ててくれたんだ)
「う、うわぁぁぁぁん!おにいたーーん!!」
嬉しくて、嬉しくて、感情が爆発して、ユリシアは子供みたいに声を上げて泣きじゃくった。 おにいたんの腕の中で、その胸に顔をうずめて、何度も、何度も頷いた。
「…こらこら、泣きすぎだ。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ」 「だ、だって…!嬉しすぎて…っ!」
なごみ先生は、泣きじゃくるユリシアの頭を、よしよし、と、いつまでも優しくナデナデし続けた。
「…あ、お花…!すごく綺麗…!コスモスだ!」 「ああ。…今のユリシアに、一番似合うと思ってな」
少し落ち着いたユリシアが、涙で濡れた顔を上げて花束を受け取ると、幸せそうにその香りを嗅いだ。
「ねえ、おにいたん、知ってる?」 「ん?」 「コスモスの花言葉!」
「…『愛情』だろ?」
「…っ!」
おにいたんが、当たり前のように、でも、少しだけ顔を赤らめてそう言った。
「ユリシアは、俺の、自慢の…」 「…うんっ!」
言葉の続きは、聞かなくても分かった。 ユリシアは、世界で一番幸せな笑顔で、大きく、大きく頷いた。
おにいたんの「愛情」は、ちゃんとユリシアのものだ。 それを確認できただけで、胸がいっぱいだった。
…でも。
その夜、ベッドに入って、花瓶に挿したコスモスを眺めながら、ユリシアは、ふと学院での光景を思い出していた。
(おにいたんの「愛情」は、私のもの。…それは、わかった) (でも…)
(あの時の、雫ちゃんを見る、切なそうな顔…) (柚羽ちゃんに「私の力不足だ」って言った、悔しそうな顔…) (そして…あの女(綾香)に手を握られて、真っ赤になってた、動揺した顔…)
(おにいたんの「愛情」は私のでも、「先生」としてのおにいたんの心は…?) (なんだか、ユリシアの知らないところで、どんどん動かされてる…)
(…あの人たちに、取られちゃったり、しないよね…?)
コスモスの甘い香りに包まれながら、ユリシアの心には、幸せと同時に、消すことのできない、小さな不安のトゲが、チクリと刺さったままだった。
