2025年9月18日(木)
第1章:遠い景色と、静かなる決意
九月も半ばを過ぎた昼下がり。チューエル淑女養成学院の庭園は、秋の気配を運ぶ風が優しく木々を揺らしていた。ラウンジの窓辺でお茶をいただいていた茉里絵の耳に、大切な友人たちの弾むような声が届いた。
「ねえねえ、今度の連休、サイクリングに行かない?川沿いの道、すっごく気持ちいいんだって!」 ユリシアの太陽のような声に、雫が少し呆れたように応じる。 「はあ?あんた、どうせ三日で飽きるんでしょ」 「そんなことないもん!柚羽ちゃんも行きたいよね?」 「は、はい!皆さんとご一緒できるなら…」
楽しげに計画を立てる三人の輪。その輪郭が、茉里絵には少しだけ、遠い景色のように見えた。 サイクリング…。淑女の嗜みとして教わった乗馬とは違う、もっと軽やかで、決められたレールからはみ出していくような、自由な響き。
(わたくしには…縁のない世界ですわ)
心の中でそう呟き、茉里絵はそっと紅茶を口に含んだ。友人たちの屈託のない笑い声が、ガラス越しに聞こえてくる。その楽しげな響きが、まるで自分だけを隔てる透明な壁のように感じられた。
(皆様は、いつもご自分の意志で、軽やかに未来へ進んでいらっしゃる…それに比べて、わたくしは…)
決められた家、決められた縁談、そして淑女として定められた振る舞い。それは守られた道ではあるけれど、時折ひどく息苦しくなる。風を切って走る自転車のイメージが、そんな彼女の心に、抗いがたい魅力として映った。
(ただ、遠くから眺めているだけで、本当によろしいのかしら…?一度くらい、わたくし自身の力で、違う景色を見てみたい、と願うのは…我儘なのでしょうか…)
カップを置く小さな音は、彼女の静かな決意の合図だった。
その日の放課後、茉里絵は一人、学院の倉庫の奥へと向かっていた。目的は、家政の授業で使う備品…というのは口実。彼女は、埃をかぶった一台の、少し古いが気品のあるシティサイクルを、そっと引きずり出した。
(わたくしも…皆様と同じ景色を見てみたいのです)
体育の授業以外ではほとんど袖を通すことのない、紺色の長袖長ズボンのジャージに着替える。鏡に映る自分の姿に、思わずため息が漏れた。豊満な胸が、ジャージのラインをくっきりと主張している。
(また、この身体が…わたくしの自由を邪魔するのかしら)
庭園に出ると、ペダルに足を乗せただけで、車体はぐらりと傾いた。胸の重みが、重心を不安定に揺さぶる。
「きゃっ…!💦」
ほんの数メートル進んだだけで、彼女はバランスを崩し、上品に、しかし無様に芝生の上へと転がった。痛みよりも先に感じたのは、羞恥心だった。
(まあ、淑女にあるまじき姿ですわ…)
土で汚れた膝を払いながら立ち上がる。その姿はどこかコミカルで可愛らしいが、彼女の心は悔しさでいっぱいだった。
ベンチに腰掛け、日記帳を開く。
「親愛なる日記様。今日、わたくしは初めて、自転車という自由の象徴に触れてみましたの。ですが、結果は…無様、の一言でしたわ。この身体が、この豊満な胸が、まるでわたくしを地面に縛り付ける重石のように感じられて…。皆様は、あんなにも軽やかに、ご自分の力で風を切って進んでいかれるのに。わたくしは、またしても、この身体に、淑女という名の見えない鎖に、行く手を阻まれてしまいました。悔しくて、情けなくて、涙がこぼれそうになりましたわ。でも…いいえ。ここで諦めてしまっては、いつものわたくしと何も変わりません。いつか、皆様と並んで風を感じられる、その日まで。わたくしの挑戦は、まだ始まったばかりですわ」
夕陽が庭園を黄金色に染める中、茉里絵の孤独な挑戦は、静かに始まった。
第2章:淑女の試練と、転んだ数だけ
それから数日、茉里絵の秘密の練習は続いた。まだ誰もいない早朝の裏庭で、彼女は何度もペダルを踏み、そして何度も転んだ。
ある時は、バランスを崩して植え込みに突っ込み、頭に朝顔のツルを絡ませてしまったり。またある時は、少しでも乗り心地を良くしようと、自作のレース付きクッションをサドルに取り付けた結果、お尻が滑って派手に転倒してしまったり。その失敗の一つ一つが、彼女の天然ぽわぽわな可愛らしさを際立たせていたが、本人は真剣そのものだった。
増えていく擦り傷と痣。鏡を見るたびに、胸の奥がずきりと痛む。
(この豊満さが、これほどまでにわたくしを縛るとは…)
家のこと、決められた縁談のことが頭をよぎる。「お父様の言う通りにしていれば、このような苦労もございませんのに…」と、自嘲めいた考えが浮かんで消える。
グラビアに挑戦したことで、少しだけ得られたはずの自信が、軋む輪の音と共に揺らいでいく。
その日も、茉里絵は派手に転び、ついに堪えきれずに涙がぽろりと頬を伝った。
「わたくし…本当に、これでよろしいのでしょうか…💧」
しかし、涙を拭って顔を上げた彼女の瞳には、諦めの色ではなく、強い意志の光が宿っていた。 「いいえ。わたくしの強さは、身体ではございません。この身体ごと、わたくしなのですから。本当の強さは、この『意志』ですわ」✨
彼女は立ち上がると、汚れた自転車を布で優しく磨き始めた。それはまるで、自身の心の埃を丁寧に払い落とすかのようだった。
(胸の重みが後ろに引くのでしたら、もっと前傾姿勢でバランスを取れば…?サドルの高さを少し変えてみたら…?)
転んだ数だけ、彼女は学んでいた。この厄介な身体を「敵」として憎むのではなく、向き合うべき「課題」として捉え始めた瞬間だった。
第3章:友情という名の追い風
「まりちゃん、すごい!自転車の練習してたんだ!」
週末の朝、いつものように練習に励んでいた茉里絵の背中に、太陽のような声が降り注いだ。振り返ると、そこにはユリシアが目を輝かせて立っていた。
「ユリちゃん…!こ、これは、その…淑女としての嗜みの一つでして…」
慌てて取り繕う茉里絵に、ユリシアは満面の笑みで駆け寄った。
「私も手伝う!一緒に練習しよ!」
ユリシアが加わった練習は、途端に賑やかになった。
「きゃあ、まりちゃん、転んじゃったね!大丈夫?ケガとかしてない?でも、今の転び方、すっごく可愛かったよ♡」
「も、もう!わたくし、こんな姿で転ぶなんて…でも、一人よりずっと、楽しいですわ」
そこへ、偶然通りかかった雫が、呆れたように声をかける。
「ふん、何やってるのよ。牛乳女が自転車なんて、案の定ひっくり返ってるじゃない」 しかし、彼女はしばらく茉里絵の乗り方を見ていたかと思うと、プロの視点から、的確なアドバイスを放った。
「あんた、ただ闇雲に漕いでるだけ。グラビアのポージングと一緒よ。体幹で支えて、一番美しく、安定する『一点』を探すの。あんたの身体のラインが、一番綺麗に見える角度。それが、一番効率的に力が伝わるポイント。重心が後ろに偏りすぎなのよ。サドルを少し下げて、ハンドルをほんの少しだけ上げてみなさい」
「雫さん…!」
ツンとした言葉の裏にある、的確な優しさ。その時、後からついてきていた柚羽も、おずおずと口を開いた。
「あの…茉里絵先輩。ペダルを漕ぐ時、足の裏全体ではなく、**母指球(ぼしきゅう)**を意識すると、力が伝わりやすいそうです…」
「柚羽さんも…本当にありがとう!」
ユリシアの応援、雫の技術指導、柚羽の知識。友情という名の追い風を受けて、茉里絵はもう一度ペダルに足をかけた。
サドルの高さを調整し、雫の言った「一点」を探るように、そっと前傾姿勢をとる。そして、柚羽のアドバイス通り、母指球でゆっくりとペダルを踏み込んだ。
ぐらり、と一度だけ大きく揺れた車体が、ふっと安定する。
「あっ…!✨」
風が、頬を撫でた。
今まで感じたことのない、軽やかで、どこまでも自由な感覚。
茉里絵は、転ばなかった。ほんの十メートル。しかし、それは彼女にとって、何マイルにも匹する、偉大な前進だった。
第4章:淑女が掴んだ、自由の景色
それからの茉里絵の上達は、目覚ましいものだった。
友人たちのサポートを受け、彼女はついに「自分の身体に合った、世界でただ一つの乗り方」を完全にマスターしたのだ。
そして、約束の連休。 茉里絵は、友人たちと共に、川沿いのサイクリングロードにいた。
「まりちゃん、すごいすごい!風になってるよー!🎉」
隣を走るユリシアが、嬉しそうに歓声を上げる。
「ええ、本当に…心地よい風ですわね!」
もう、転ぶことへの恐怖はない。胸の重みは、彼女の身体を安定させるための、頼もしい重しに変わっていた。コンプレックスは、彼女だけの特別な個性に昇華されたのだ。
ふと、道の先を歩く和先生の姿が見えた。彼は、サイクリングを楽しむ生徒たちの姿を、優しい眼差しで見守っていた。そして、自信に満ちた表情でペダルを漕ぐ茉里絵の姿を認めると、驚いたように少しだけ目を見開き、そして、温かく微笑んでくれた。
その微笑みだけで、茉里絵の心は、秋空よりも高く、どこまでも舞い上がっていくような気持ちになった。💖
その夜、茉里絵は日記帳に、震える手で今日の喜びを綴った。
「親愛なる日記様。今日、わたくしは初めて、本当の自由の味を知りました。この挑戦で、わたくしは自分の身体を、かけがえのない味方にすることができましたの。
ユリちゃんの太陽のような笑顔。そして…雫さんの的確な言葉には、いつも驚かされますわ。普段は憎まれ口ばかり叩いていらっしゃいますけれど、その実、誰よりも物事の本質を見抜いていらっしゃる。今も隣のベッドで静かに寝息を立てていますが、彼女のあの言葉がなければ、わたくしはまだ芝生の上で転んでいたことでしょう。それから、柚羽さんの優しい知識も…。大切な友人たちがいなければ、この景色を見ることはきっと叶いませんでした。
そして、和先生…。貴方の隣に立つ日を夢見て、わたくし、これからも精一杯、自分を磨いてまいります。おやすみなさいませ」