眠れない。
何度布団に入っても、昨日のことが頭から離れない。渚との時間は…本当に、幸せだった。彼女の笑顔、あのロケットペンダントを受け取ってくれた時の表情。
「これからも、君といる時間を、もっと大切にしたい」
あの言葉は本当だった。でも…。
家に帰って、ユリシアの「おかえりなさい、おにいたん♡」を聞いた瞬間、胸が苦しくなった。
俺は、何をしているんだ。
夜食の蜂蜜入り玉子焼きを食べながら、ユリシアが「楽しかった?」って聞いてきた時、俺は何も答えられなかった。楽しかった、と言うのが正直な気持ちなのに、どうしてそれを素直に言えないんだ。
罪悪感。そうだ、それが俺の胸を締め付けているものの正体だ。
ユリシアに隠し事をしている。婚約者に隠し事をして、他の女性とデートをして、その人に「大切にしたい」なんて言って…。
これって、浮気なのか?
いや、違う。俺とユリシアはまだ正式に結婚しているわけじゃない。でも、幼い頃からの約束があって、彼女は俺との将来を疑ったことがない。そんな彼女を裏切っているような気がして…。
でも、渚への気持ちも嘘じゃない。
ああ、もう、わからない。俺は何がしたいんだ。
恋愛なんて、今まで考えたことがなかった。生徒たちが恋愛の相談をしてきても、「勉強に集中しろ」なんて適当に答えていた。こんなに苦しくて、複雑で、どうしようもないものだなんて、知らなかった。
ユリシアは、俺の何を見ているんだろう。 本当に俺を愛してくれているのか、それとも、幼い頃からの習慣で、俺を「おにいたん」と呼んでいるだけなのか。
そもそも、俺はユリシアをどう思っているんだ。
妹?家族?婚約者?
昨日、渚が蜂蜜の話をした時、俺は無意識にユリシアのことを話していた。あの時の渚の表情…。
俺は、ユリシアのことを話している自分に、なぜかホッとしていた。彼女のことを話すのが、自然で、当たり前で…。
これが何を意味するのか、俺にはわからない。
渚は大人の女性だ。自分の気持ちもはっきりしているし、俺の気持ちも理解してくれる。一緒にいると安心できる。
でも、ユリシアは…ユリシアと一緒にいる時の俺は、何者なんだろう。兄?保護者?それとも…。
考えれば考えるほど、混乱する。
俺は間違ったことをしているのか。渚に気持ちを伝えたのは間違いだったのか。でも、あの時の俺は、確かに心から彼女を大切に思っていた。
ユリシアにも正直に話すべきなのか。でも、何と言えばいいんだ。「渚先生のことが好きになった」なんて、そんなこと…。
彼女が傷つく顔なんて、見たくない。
でも、このまま隠し続けるのも辛い。
俺はどうすればいいんだ。
恋愛なんて、こんなに難しいものだったのか。みんな、こんな気持ちで恋をしているのか。
生徒たちが恋愛相談をしてきた時、俺はもっと真剣に聞いてあげるべきだった。こんなに苦しいものだなんて、知らなかった。
明日、渚と顔を合わせる時、俺はどんな顔をすればいいんだろう。昨日のことを思い出して、変な顔になったりしないだろうか。
そして、家に帰ったら、またユリシアの笑顔がある。あの無邪気な笑顔を見る度に、俺は罪悪感で胸が苦しくなる。
俺は、最低な男なのかもしれない。
一人の女性を愛しながら、別の女性のことも忘れられない。これって、どういうことなんだ。
50代になって、初めてこんな気持ちになるなんて…。
今まで、自分のことは後回しにして生きてきた。そうすることが当たり前だと思っていた。自分の幸せなんて考える余裕もなかったし、考える資格もないと思っていた。
でも、昨日の渚の笑顔を見て…初めて「自分も幸せになりたい」と思った。
こんなことを考えていいのだろうか。
俺は、他人のために生きることしか知らない。ユリシアのために、生徒たちのために、それが俺の存在意義だと思ってきた。自分の感情を優先させるなんて、許されることなのか。
でも、この気持ちは嘘じゃない。渚への想いも、ユリシアへの複雑な感情も、全部本当だ。
もう若くない。人生の残り時間を考えると、このまま自分を押し殺したまま終わるのも怖い。でも、自分の幸せを追求することで、大切な人たちを傷つけるのはもっと怖い。
俺には、幸せになる資格があるのだろうか。
今まで自分のことを犠牲にしてきたから、もういいじゃないか…そんな甘えた考えが頭をよぎる。でも、それは間違っているような気がする。
ユリシアは俺のことを信じてる。明日も「おにいたん、おはよう♡」って言ってくれるんだろう。あの笑顔を見たら、また罪悪感で胸が苦しくなる。
でも、渚との約束だって守りたい。「これからも大切にしたい」って言ったんだから。
ああ、もう、どうしたらいいんだか…。
明日の朝飯の時、ユリシアに「昨日はどうだった?」って聞かれたら、何て答えよう。嘘をつくのも嫌だし、本当のことを言うのも…。
そもそも俺は何がしたいんだ。
もう考えるのやめよう。頭がぐちゃぐちゃになる。
とりあえず、明日も仕事だ。生徒たちに迷惑をかけるわけにはいかない。
寝よう。寝られるかわからないけど…。