第1章:ただいま、私の『たからもの』
週末の金曜日の夜。二学期が始まり、少しだけ秋の気配が混じり始めた風が、古びたアパートの廊下を吹き抜けていく。雫は、重い教科書と着替えが詰まったボストンバッグを肩にかけ、慣れた手つきで自宅のドアの鍵を開けた。

…ただいま

お姉ちゃん!おかえりー!
その声と同時に、小さな竜巻のような勢いで、妹の美咲が玄関に飛び出してきた。その満面の笑みを見た瞬間、一週間の寄宿舎生活とユリシアとの水面下の戦いで張り詰めていた雫の心の糸が、ふわりと緩むのを感じる。

もう、うるさいわね。そんなに飛びついてこないでよ
口ではそう言いながらも、雫は美咲の頭を優しく撫でた。部屋の中からは、美咲が一人で作ってくれたのであろう、少しだけ焦げた野菜炒めの香ばしい匂いが漂ってくる。お世辞にも広いとは言えない、だけど自分たちの「城」であるこの部屋の空気が、雫の心を優しく包み込んだ。

ねえねえ、お姉ちゃん!今日の夜、『鋼鉄天使ミカ』の最新話、一緒に見てくれる!?
夕食の片付けを終え、二人で狭いリビングのソファに座ると、美咲がキラキラした瞳でねだってきた。

はぁ?あんた、もうとっくに見てるんでしょ

見たけど!でも、お姉ちゃんと一緒にもう一回見たいの!副音声でお姉ちゃんの解説付きで!

何よそれ、生意気ね
雫は呆れたように言いながらも、リモコンを手に取った。この生意気で、甘えん坊で、世界で一番大切な妹のお願いを、彼女が断れるはずもなかった。
第2章:開かれた、秘密の扉
『翔の心が、私の翼だから!』
テレビ画面の中で、主人公の鋼鉄天使ミカが決め台詞と共に、美しい鋼の翼を広げる。その姿に、美咲は

きゃー!ミカ、カッコいいー!
と両手を上げて大興奮だ。

まあ、今日の作画は悪くなかったわね。特に、あのブースター噴射の光の表現は、なかなか見応えがあったわ
雫が、女優としてのプロの視点で冷静に分析してみせる。

だよね!私、ミカのあの手作り感あふれる感じ、大好きなんだ!翔が一生懸命パーツを組み上げてるのが伝わってくるもん!

ふん、分かってるじゃない。やっぱり鋼鉄天使は、ベーシックモデルを自分好みに育ててこそよ。エテルナ・テクノロジー社の素体は、信頼性が高くていじり甲斐があるから最高なの

えー!でも、ルミエール・システムズ社の新作もすっごく綺麗だよ?この前お姉ちゃんが見せてくれた動画のやつ!もう芸術品みたいだったもん!
美咲が、先日雫が見せたショートムービーのことを思い出して、頬を紅潮させる。

あー、あれは確かに見た目はいいわね。でも、ああいうのは最初から完璧すぎて、こっちが何かしてあげる『隙』がないのよ。それに比べてミカは…

ミカは、翔がいないと何もできないもんね!

そうよ。あの不完全さこそが、ミカを世界で一体だけの特別な存在にしてるの
二人のロボ談義は、ヒートアップしていく。その時、美咲がふと、思い出したように言った。

ねえ、お姉ちゃん。お兄ちゃん先生って、やっぱりロボ娘のことになるとすっごく可愛いよね!

…へっ!?
不意打ちの質問に、雫の心臓が大きく跳ねた。

な、なんであんたが、そんなこと…!

だって、お兄ちゃん先生とチャットでいつも話してるもん!

ちょ、ちょっと待ちなさいよ! チャットで、いつもですって!? あんた、いつの間にそんな…!

ていうか、何そのお兄ちゃん先生って呼び方はっ!

えへへ、だって先生、ロボ娘の話になると、目がキラキラして子供みたいになるんだもん♡ だから私が『お兄ちゃん先生』って呼ぶようにしたの

最初は『いやいや、おじさんだから…』って照れてたんだけど、『だってミカの話してる時のおじちゃん、すっごい可愛いんだもん!』って言ったら、諦めたみたい

この前も、先生が貸してくれた昔のロボ娘のDVD、すっごく面白かったって話したら、『だろ!?』って、もう大興奮で!

…見せなさいよ
雫の声が、低く、静かに響いた。

え〜?どうしよっかな〜。これは私とお兄ちゃん先生、二人だけの秘密だし〜
美咲が悪戯っぽく笑う。

いいから、見せなさい!

はーい
美咲が差し出したスマートフォンの画面を、雫はひったくるように覗き込んだ。思わず、スマホを持つ指先に力がこもる。スクロールするたびに、頭に血が上っていくのを感じた。
そこには、自分の知らない、二人の楽しげな世界が、延々と広がっていた。熱のこもった『鋼鉄天使ミカ』の感想戦だけではない。そこには、姉である自分も知らなかった、妹とあの人の、温かい交流が記録されていた。
【チャット履歴:お兄ちゃん先生とミカを語る会】

美咲ちゃん、一人でお留守番えらいね。何か困ったことはないかい?

大丈夫だよ!もう一人でも平気だもん!でも時々寂しいかな…😢

そっか。もし寂しくなったら、いつでもおじさんにチャットしておいで。宿題で分からないことがあってもいいからね

うん!ありがとう、お兄ちゃん先生!😆

美咲ちゃん、この前のDVD、面白かったかい?

うん!すっごく面白かった!お兄ちゃん先生ありがとう!😆

よかった!気に入ってくれて、おじさんも嬉しいよ。あれはロボ娘の歴史の中でも金字塔でね

ちなみに、美咲ちゃんは「メカ娘」と「ロボ娘」の違いって知ってるかい?

え?違うの??

そうなんだよ!メカ娘は、人間の女の子が機械の装備を身に着けている感じ。でもロボ娘は、完全に機械で出来た女性型ロボットに、人の心を宿したAIが組み込まれているんだ

おじちゃんはね、そういうロボ娘ならではの愛と葛藤の物語に、すっごく惹かれるんだ

うん、私もそういうのなんだかすごく良く分かる気がする!✨

身体がロボットだけど心は乙女のミカが、翔君のことを想って頑張る姿が私はすっごく好きなの!

機械の身体の自分が、翔君のことを本気で好きになっちゃいけないんだって凄く落ち込んじゃうところとか…😢

でも、そんなミカのことを、ひとりの人間の女の子として大切に接してくれる翔君の優しさにキューンってなっちゃうの!💕

そうそう!それで思い出したんだけど、ミカがまだ今みたいに表情豊かにお喋りできなかった頃のシーンも凄く良かったよね!😊

ああ、あのシーンね!翔君が「僕にはミカの気持ちが分かる」って言っていたところかい?

そう、それ!ミカがまだぎこちない動きしかできなくて、表情もほとんど変わらなかったのに…

翔君だけは、ミカの小さな仕草の変化とか、わずかな動きの違いで、ミカが嬉しいのか悲しいのか全部分かっちゃうの!💕

あれは本当に名シーンだったね。周りの人たちには「ただの機械じゃないか」って言われても、翔君だけはミカの心をちゃんと見てくれていた

うんうん!「表情は見えないけれど、小さな仕草でミカの『ありがとう』が伝わってくる」って翔君が言ったときは、私も泣いちゃった😢

ロボ娘と人間の心の繋がりを描いた、まさに珠玉のエピソードだったね。ミカの健気さと、翔君の深い愛情が両方とも表現されていて

今のミカも素敵だけど、あの頃の無口で不器用だったミカも、すっごく愛おしかったなぁ…✨
………
雫は、その画面を食い入るように見つめた。そこには、自分の知らない、まるで同年代の親しい友人のように楽しくしゃべり合うあの人の姿があった。

なんなのよ、これ…
驚きと、そして胸の奥からこみ上げてくる、名前のつけようのない感情で、目の前が真っ暗になりそうだった。スマホを美咲に突き返しながら、必死で平静を装う。

…ふん、楽しそうじゃない。あんた、いつの間にあのおっさんと、そんなに仲良くなってたのよ
声が、自分でも驚くほど冷たく響く。その震えを隠すように、彼女は腕を組んだ。その必死な様子を、美咲は全てお見通しとばかりに、ニヤニヤしながら見つめていた。
第3章:妹は知っている、姉の秘密

ふーん?でも、お姉ちゃんだってお兄ちゃん先生と話してた時、すっごく嬉しそうな顔してたよ?ほら、あの雪がたくさん降った日とか

し、してないわよ!気のせいでしょ!

えー、絶対してたもん!お姉ちゃん、本当は…
美咲は、悪戯っぽい笑みを浮かべると、雫の耳元で囁いた。

お兄ちゃん先生のこと、好きなんでしょ?

なっ…!あんた、子供のくせに、本気でぶん殴るわよ!
雫の顔が、熟れたトマトのように真っ赤に染まる。その反応を見て、美咲は

「やっぱりー!」
と嬉しそうに笑い出した。

もう、うるさい!寝る!
雫はテレビを消すと、むすっとした顔で自分の布団に潜り込んでしまった。
しばらくして、部屋の電気が消える。暗闇の中、美咲が小さな声で話しかけてきた。

…ねえ、お姉ちゃん

…何よ

私、応援するよ。お姉ちゃんが、お兄ちゃん先生のこと、好きなの
その、あまりにも真っ直ぐな言葉に、雫は何も言い返せなかった。

だって、お姉ちゃん、お兄ちゃん先生の話をする時、今まで見たことないくらい、すっごく優しい顔してるんだもん。だから、私、分かるよ
第4章:鋼の心と、プリンの約束
翌朝。雫が目を覚ますと、隣の布団はもぬけの殻だった。テーブルの上には、一枚のメモと、お皿に乗った少し不格好な目玉焼きが置かれている。
『お姉ちゃんへ。朝早くから子供会の集まりに行ってきます。朝ごはん、頑張って作ったから食べてね! P.S. お姉ちゃんがミカのコスプレするの、すっごく見たいな! 美咲より』
その拙い文字と、優しさに、雫の胸の奥がじんわりと温かくなる。

…本当に、世話の焼ける妹なんだから
雫は、まだ温かい目玉焼きを口に運びながら、心に誓った。
グラビアの仕事も、簿記の勉強も、全てはこの子の笑顔のため。そして、いつか…あの人の隣に、胸を張って立つため。

見てなさいよ、美咲
雫は、窓の外に広がる青空を見つめた。

あんたが夢見てる、あたしの『鋼鉄天使』の姿。絶対に、最高の形で、あの人に見せてあげるんだから
それは、妹と交わした、言葉にはしない約束。
そして、自分自身の鋼の心に立てた、揺ぎない誓いだった。

…さて、と
雫は立ち上がると、バッグから財布を取り出した。

約束のプリン、買いに行かないとね
その横顔は、もう迷いのない、強く、美しい女優の顔をしていた。
カスタマイズ中の第一世代HG鋼鉄天使ミカ
「無表情でも、ミカの嬉しそうな動きが僕には手に取るように分かる。だからもっと良くしてあげたくなるんだ」