2025年10月4日(土曜日)
第1章:二つの誤解、一つの目的地
金曜日の放課後。チューエル学院の職員室は、来週に迫った簿記検定試験を前に、少しだけ張り詰めた空気に包まれていた。山積みの質問プリントに目を通しながら、和先生は深いため息をついた。

雫も、柚羽さんも…そして、ユリシアも。少し、根を詰めすぎているな…
生徒たちの真剣さは喜ばしい。しかし、過度の緊張は、本番での思わぬミスを招きかねない。知識を教えるだけが、教師の仕事ではないはずだ。

…渚先生、少し、相談があるんだが
彼は、隣のデスクで採点をしていた渚に声をかけた。

はい、先生。どうかなさいましたか?

いや、生徒たちのことなんだが…。試験が終わったら、皆の労をねぎらうために、どこかへ連れて行ってやりたいと思っていてね。何かいい場所はないだろうか
その言葉に、渚はぱっと顔を輝かせた。

まあ、素敵ですね!それでしたら、いい場所がありますわ。去年、先生とご一緒させていただいた、あの山です。山頂には、学問の神様を祀った小さな神社もありますし、試験後のお礼参りも兼ねて、皆で登るのにこれ以上ない場所だと思いますが

それは素晴らしい!
和先生の顔が、心からの喜びに輝いた。

よし、では早速、明日にでも下見に行ってみよう。君さえよければ、二人で
その会話を、ドアの隙間から、二人の生徒が聞いていたとは、誰も知る由もなかった。

( •̅ө•̅ )

(*꒪꒫꒪)
和先生の家に帰り、夕食の準備をしていたユリシアの元に、茉里絵から「大変ですわ、ユリちゃん!」という、慌てた様子のチャットが届いたのだ。その内容は、職員室で偶然耳にしたという、和先生と渚先生の密会(?)の約束だった。

(やっぱり…!明日の土曜日、おにいたん♡は渚先生と二人きりで、あの山へハイキングに行く気なんだ…!
ユリシアは、無意識のうちに手に持ったお玉をぎゅっと握りしめていた。
そして、もう一人は、雫。
職員室に来ていて、たまたまその会話を耳にしてしまったのだ。

あたしが試験勉強で必死になってる間に、あんたたちは呑気にハイキングデート…!いい度胸じゃない。でも…
雫の口元に、ほんの一瞬だけ、不敵な笑みが浮かんだ。

…これは、チャンスかもしれないわね
第2章:偶然という名の、宣戦布告
翌朝、午前10時。登山口で渚と合流した和先生は、秋晴れの空の下、深呼吸をした。

おはよう、渚。今日もいい天気になったな。いい下見になりそうだ

はい!生徒たちも、きっと喜んでくれるコースが見つかりますわ!
まさに二人が、生徒たちの笑顔を思い浮かべながら、第一歩を踏み出そうとした、その時だった。

あーっ!おにいたん♡!渚先生も!こんなところで会うなんて、ぐうぜんですねー!
振り返ると、そこには完璧なハイキングウェアに身を包んだユリシアが、満面の笑みで手を振っていた。その隣には、なぜか少し困惑した表情の茉里絵の姿もある。

( ˊᵕˋ ; )💦

ゆ、ユリ!?どうして君がここに…

えっへへー、まりちゃんと一緒に、体力作りのためのトレーニングに来たんです!ねー、まりちゃん!

え、ええ…そうですわ。ユリちゃんに、今朝早く叩き起こされまして…
和先生が呆気に取られていると、今度は別の方向から、聞き覚えのある、少しだけ不機嫌な声が聞こえてきた。

…あら、先生方も、奇遇ですね
そこに立っていたのは、動きやすいジャージ姿の雫と、その後ろで申し訳なさそうに縮こまっている柚羽だった。

し、雫!?君たちまで、一体どうして…

柚羽が、試験前の運動不足を解消したいって言うから、付き合ってあげてただけよ。…まさか、先生たちがここでデートしてるとは思わなかったけど
雫の棘のある言葉に、渚の眉がぴくりと動く。

(⑉・̆-・̆⑉)
偶然?そんなはずがない。
和先生を除く全員が、そう理解していた。これは、偶然という名の、二人の挑戦者からの明確な宣戦布告なのだと。
第3章:五人五色の、アピール合戦
こうして、和先生と渚先生の、生徒を想う「下見ハイキング」は、何も知らない乙女たちの「恋愛成就祈願(?)」が入り乱れる、奇妙な集団登山へと姿を変えた。

おにいたん♡、ここの坂、急で登れなーい!手、貸してー!
ユリシアは、早速「婚約者」の特権を発動し、和先生の腕に絡みつく。その計算され尽くした甘え方に、渚が(下見のはずなのに…)と眉をひそめた、その時だった。

(ㅎ_ㅎ)

まあ、ユリちゃん、大変ですわね
後方から、茉里絵が優雅に声をかけた。

和先生、ユリちゃんは少し体力がないところがありますから、支えて差し上げていただけます?
その完璧なアシストに、ユリシアは内心で親友に感謝のウインクを送る。渚は思わぬ援護射撃に、ぐっと言葉を詰まらせた。

(*>ω<)bグッ

(;^ν^)ぐぬぬ…

先生、こちらのキノコ、図鑑で見たことがありますわ。確か…
渚は、流れを断ち切るように、植物の知識を披露し、和先生との知的な会話を試みる。しかし…

……先生、税金についてなんだけど、今ちょっと教えてくれる?課税所得の算定方法が、まだしっくりこないんだけど
その会話に、今度は雫が割り込んできた。それは、ユリシアの甘えでも、渚の教養でもない。和先生と同じ「簿記」という土俵で、彼と対等に語り合える、彼女だけの武器だった。

あ、私もそこ、雫先輩に教えていただいたのですが、まだ少し難しくて…。先生のお話も、ぜひお伺いしたいです
雫の後ろから、柚羽が小さな声で付け加える。自分の師である雫を立てつつ、自らの学習意欲も示す、健気なサポートだった。専門的な議論に和先生の目が輝き、雫が満足げに口の端を上げるのを、渚は見逃さなかった。
もはや、ただの引率役ではいられない。茉里絵と柚羽もまた、それぞれの形で静かにこの戦いに加わった。五人五色の想いが交錯する山道は、ただの登山道を遥かに超えた、熱い戦場と化していた。
第4章:山頂の弁当戦争と、教師の機転
息を切らしながらも、一行はついに山頂にたどり着いた。木々に囲まれた広場の奥には、古びた鳥居と、小さな祠が静かに佇んでいる。

さあ、和先生!お弁当にしましょう!今日は、先生の好きな唐揚げを、お醬油味で作ってきました!先生、この味お好きですよねっ♪
渚が、自信満々にランチボックスを開く。

ちょっと待って!
その隣で、ユリシアが、さらに大きな三段重ねの重箱を取り出した。

おにいたん♡には、私が作った、愛情たっぷりのハートの卵焼きがありますので!もちろん、お砂糖は一切入れてませんから!

なっ…!
渚の顔色が変わる。

ふん、子供っぽいのね
その時、雫がリュックから取り出したのは、カロリーメイトとプロテインバーだった。

登山っていうのは、栄養補給が一番大事なのよ。見た目や愛情(笑)で浮かれてる場合じゃないでしょ

ヾ(;´▽`A“アセアセ
三者三様の「愛情(?)」を突きつけられ、和先生はただただ冷や汗を流すばかりだったが、やがて何かを決意したように、パン、と手を叩いた。

皆、ありがとう。…そうか、君たちも、やはり試験のことが気になって、神頼みに来たんだな
その、あまりにも予想外の言葉。
ユリシアと雫の動きが、ぴたりと止まった。

え…?

神頼み…?
二人の盛大な勘違いを知ってか知らずか、和先生は、どこまでも優しい声で続けた。

実は、今日の私と渚先生のハイキングは、来週の検定に臨む君たちのために、この神社へ合格祈願に来たんだ。君たちが、これまで積み重ねてきた努力の全てを、本番で出し切れるように、とな
その言葉は、咄嗟に彼の口をついて出たものだった。もともとは試験後の打ち上げのための「下見」だったはずが、生徒たちの必死な顔を見ているうちに、もっと大切な目的へと変わっていたのだ。
生徒たちの不安を少しでも和らげ、心を一つにしたい。彼の教師としての真心が、その場の空気を変える、優しい言葉を生み出した。
ユリシアと雫の頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。自分たちの早とちりが、恥ずかしくてたまらない。

さあ、行こう。皆で、心を一つにして、神様にお願いするんだ
結局、その日のお弁当は、全員で仲良く(?)分け合って食べた。
そして、祠の前で、五人は静かに手を合わせた。
ユリシアは、婚約者として彼の隣にいることを。
渚は、パートナーとして彼を支えることを。
雫は、好敵手から恋人になって、いつか彼に認められることを。
それぞれの胸に秘めた恋の願いを、ほんの少しだけ横に置いて。
今はただ、同じ目標に向かう「戦友」として、全員の合格を、心から祈る。
秋の空の下、和先生を巡る恋の天秤は、ますます激しく揺れ動いていく。
しかし、この日の山頂には、確かに、穏やかで、温かい風が吹いていた。