第1章:宣戦布告のチャイム
八月も半ばに入った、ある日の午後。チューエル淑女養成学院の特別教室には、夏の強い日差しと、生徒たちの熱気が満ちていた。窓の外では蝉がやかましく鳴いているが、室内では電卓を叩く音と、鉛筆が紙の上を走る音だけが響いている。和先生による、日商簿記検定対策の夏期講習だ。
ユリシア、雫、茉里絵、柚羽の四人を含む、総勢十八名の生徒たちが真剣な眼差しで机に向かっている。夏休みを返上してまで参加するその姿は、和先生の授業の人気ぶりを物語っていた。
講習が始まる数分前。ユリシアは、自分の席でスマホをいじりながら、小さく鼻歌を歌っていた。そのスマホには、見慣れない、小さなピンク色の貝殻がついたストラップが揺れている。先日の海水浴で、和先生と二人で見つけた宝物だ。
「何それ。あんた、そんな趣味あったわけ?」
隣の席の雫が、鋭い視線でそのストラップを捉えた。
「えっ!?あ、ううん、これは…この前の休みに、ちょっと気分転換で…」
ユリシアは慌ててスマホを隠す。その不自然なほど動揺した様子と、ほんのりと日に焼けた首筋を、雫は見逃さなかった。
「ふーん…『気分転換』ねぇ。ずいぶん楽しそうな顔してるじゃない。まさか、おっさんと二人で、なんて言ってないでしょうね?」
「そ、そんなわけないじゃない!やだなあ、雫ちゃんは!」
大げさに手を振って否定するユリシアの姿に、雫は確信を深め、静かに闘志の炎を燃やした。
「うーん…」
一番前の席で、柚羽は小さなうめき声を漏らした。彼女の視線は、テキストの「決算整理仕訳」のページに釘付けになっている。もう三十分以上、同じページから一文字も進んでいない。
(減価償却費の計算…理屈はわかる。でも、この例題の数字がどうしてこうなるのか、100%納得できないと次に進めない…)
真面目すぎる彼女の性格が、知識の吸収を妨げる分厚い壁となっていた。
その後ろの席では、雫が腕を組み、険しい顔で2級のテキストと睨み合っていた。
(連結会計って何よ…!子会社がどうとか、支配獲得日がどうとか…言葉の意味からしてややこしいんだから!)
3級の範囲はほぼ完璧にマスターした彼女だが、2級の壁は想像以上に高く、プライドの高い彼女の心を苛んでいた。ちらりと前の席の柚羽に目をやり、内心でため息をつく。
(あの子、また止まってる。気持ちはわかるけど、そんなんじゃ10月の試験に間に合わないわよ…)
一方、教室の隅では、対照的な光景が広がっていた。
「ねえ、まりちゃん。この勘定科目、どっちに書くか分かんなくなっちゃった…」
ユリシアは、わざと困ったような声で茉里絵に囁く。しかし、彼女のノートの隅には、完璧な仕訳と共に、ハートマークのついた「おにいたん♡」という落書きが描かれているのを、茉里絵だけが知っている。
(ユリちゃん…本当はもう3級の範囲、ほとんど理解しているくせに…)
茉里絵はくすりと笑いをこらえながら、「ここですわよ」と優しく教える。
ユリシアの狙いはただ一つ。
(ふふっ、この前の海でのデートで、おにいたん♡との約束、再確認しちゃったもんね。もう遠慮なんてしない。みんなの前でも、私がおにいたん♡の一番だって、分からせてあげなきゃ!)
先日、二人きりで過ごした秘密の時間が、彼女に大きな自信と、少しだけ大胆な勇気を与えていた。
「おにいたーん♡!やっぱり分かんないから、教えてくださーい!」
ぶりっ子全開の甘えた声が、静かな教室に響き渡った。
その瞬間、教室の空気がピリッと張り詰めた。他の生徒たちが驚いたように顔を上げる中、雫のペンがピタリと止まる。彼女は顔を上げず、ただギリッと奥歯を噛み締めた。
(あいつ…!さっき見せたスマホの貝殻…間違いないわね。みんなに内緒で抜け駆けするなんて、いい度胸じゃない…!いいわ、上等よ。あんたが子供っぽい秘密のデートで気を引くなら、あたしは正々堂々、この教室で圧倒的な実力と面倒見の良さを見せつけて、どっちが“隣にいるべき女”か、思い知らせてあげるんだから!)
茉里絵は、扇子でそっと口元を隠し、その優雅な瞳を面白そうに細めた。
(まあ、ユリちゃん、可愛らしい宣戦布告ですこと。ふふっ、貴女のその真っ直ぐなところ…本当に眩しくて、応援したくなりますわ。でも…わたくしも、親友として、そして一人の恋する淑女として…正々堂々、お相手させていただきますわね)
第2章:先生がくれた、魔法の言葉
「はいはい、どこが分からないんだ?」
和先生は苦笑しながら、ユリシアの席へと向かう。彼女の「分からないフリ」には薄々気づいているが、その甘えを無下にできないのも、また彼だった。
ユリシアが「えへへ、全部です♡」と答え、和先生が「こらこら」と頭を軽く小突く。その微笑ましい(?)やり取りを、雫は燃えるような視線で睨みつけていた。そして、その矛先は、くしくも一番近くで困っている後輩へと向かった。
「ちょっと、柚羽!あんた、さっきから全然進んでないじゃない!何やってるのよ!」
雫の声に、柚羽の肩がびくりと震える。
「し、雫先輩…。すみません、この部分がどうしても納得できなくて…」
「納得するまで次に進めないなんて、そんなの効率が悪すぎるでしょ!とにかく先に進みなさいよ!」
「で、でも、分からないまま進むのは、もっと不安で…」
目に涙を浮かべる柚羽と、苛立ちを隠せない雫。その様子を、和先生はずっと静かに見ていた。
ユリシアへの対応を終えた彼が、そっと柚羽の隣に立った。
「柚羽さん」
その穏やかな声に、柚羽は顔を上げる。
「少し、考え方を変えてみませんか?」
和先生は、机の上に置かれた分厚いテキストを指さした。
「このテキストを、一本の長い道だと考えてみてください。柚羽さんは今、道の入り口にある石ころ一つ一つの形を、完璧に覚えようとしている。でも、その先がどんな景色に繋がっているのか知らないままでは、その石ころがなぜそこにあるのか、本当の意味は分かりません」
「え…?」
「一度でいい。分からなくてもいいから、とにかく最後まで、この道を走り抜けてみてください。ゴールに何があるのかを知るんです。そして、ゴールに着いたら、もう一度スタート地点に戻って、また歩き始める」
和先生は、柚羽の目に宿る不安を、優しい眼差しで溶かすように続けた。
「不思議なものでね、二度目に歩く道は、一度目とは全く違う景色に見えるんですよ。一度目に意味が分からなかった石ころが、『ああ、あの曲がり角への目印だったのか』と、その役割を教えてくれる。それを繰り返すうちに、道全体が、いつの間にか君自身の庭になっているはずです」
その言葉に、柚羽は目を見開いた。雫もまた、ハッとした顔で和先生を見つめている。
(そうか…!だから、あたしも何度も繰り返して読んでるうちに、いつの間にか分かるようになってたんだ…!)
自分が無意識にやっていたことの理由を、彼はこんなにも分かりやすく言葉にしてくれた。
「おにいたん♡、すごーい!まるで魔法使いみたい!」
ユリシアが茶化すように言うが、その声は本心からの尊敬に満ちていた。
第3章:ページをめくる、小さな勇気
「…やって、みます」
柚羽は、小さな声で、しかしはっきりとした意志を込めて言った。
それからの彼女は、まるで別人のようだった。
分からない箇所があっても、唇をきゅっと結び、和先生の言葉を信じてページをめくる。最初は不安でいっぱいだった。まるで霧の中を、地図も持たずに進んでいるような心細さ。
講習の残り時間、彼女は一心不乱にページをめくり続けた。もちろん、5時間の講習でテキストの最後までたどり着けるはずもない。しかし、彼女は今日一日で、これまでの一週間分よりも多くのページを読み進めることができた。
(本当に、これでいいのかな…)
講習の終わりが近づいた頃、読み進めた範囲の多さに達成感を覚えつつも、やはり理解が追いついていないことへの不安が彼女を襲った。
その表情を察した雫が、ぼそりと言った。
「…お疲れ。で、どうだった?少しは景色が見えた?」
「それが…まだ霞んでいて、よく見えませんでした…」
「ふん、当たり前でしょ。一日で全部見えるわけないじゃない」
雫は自分のテキストを閉じると、柚羽のテキストの最初のページを開いた。
「ほら、もう一回、スタート地点に戻るわよ。今度は、私が隣を歩いてあげる」
「雫先輩…!」
そのぶっきらぼうな優しさに、柚羽の目に涙が浮かぶ。
二人は、もう一度、今日進んだ範囲の最初のページから読み始めた。
「…あ」
読み始めて数分後、柚羽が小さな声を上げた。
「この『当座借越』って、さっき読んだ銀行勘定調整表と繋がってるんだ…!」
一度目に読んだ時はただの暗号にしか見えなかった言葉が、少し先の景色を知っている今、確かな意味を持って輝き始めた。
「そういうことよ」
雫が、満足そうに口の端を上げる。
(見てなさいよ、和先生。ユリシアの甘え声より、こうやって後輩を導くあたしの方が、ずっと頼りになるでしょ?)
「一つ一つの仕訳は、全部繋がってる。バラバラに見えても、ゴールから見れば一本の道なのよ」
その後の柚羽の集中力は、目を見張るものがあった。一度目の旅で見た霞んだ景色が、二度目の旅ではっきりと輪郭を現していく。その面白さに、彼女は時間を忘れて没頭した。
第4章:夏空に描く、それぞれの未来図
講習の終わりを告げるチャイムが鳴り、生徒たちが帰り支度を始める。
「先生!ありがとうございました!」
柚羽が、今日一番の明るい声で和先生に頭を下げた。その顔にはもう、迷いの色はなかった。
「おにいたん♡、私、勉強しすぎてお腹すいちゃった!アイスおごってくれないと、もう一歩も歩けませーん!」
ユリシアが和先生の腕に絡みつく。その瞬間、彼女は後ろに立つ雫に向けて、ほんの一瞬だけ、挑戦的な笑みを浮かべた。
「はいはい、分かったから。茉里絵さんも、雫も、柚羽さんも、みんなで行くぞ」
「まあ、嬉しいですわ。では、わたくし、とっておきの甘味処をご案内いたします」
茉里絵が優雅に微笑む。
教室を出て、夕暮れの廊下を歩く。
「…ありがとね、雫先輩」
柚羽が、隣を歩く雫に小さな声でお礼を言った。
「別に。あんたが頑張っただけでしょ」
雫はそっぽを向きながらも、その耳は少しだけ赤くなっていた。
「でも、本当にすごいなって思って。雫先輩みたいに、私も…」
「あんたはあんたのペースでやればいいのよ」
雫は柚羽の頭をくしゃっと撫でた。
「…でも、まあ、分からないことがあったら、いつでも聞きに来なさい。あたしが、あんたの家庭教師になってあげるわよ」
その言葉に、柚羽は満面の笑みを浮かべた。
夏休みは、まだ半分。十月の試験までは、長いようで短い。
でも、今日のこの教室で、彼女たちはただの知識だけではない、もっと大切な何かを学んだはずだ。
夕焼けに染まる空を見上げながら、和先生は静かに微笑んでいた。
(君たちの未来図は、きっと素晴らしいものになる)
そう確信できる、確かな手応えを感じながら。