新緑がキャンパスを包む放課後。窓辺をかすめた風に、ユリシアの淡いピンク髪がふわりと揺れた。教室では中間テスト返却のざわめきも引き、代わりに「今年こそ簿記を受ける?」という小さな噂があちこちで芽生え始めている。だが――まだ本格的に検定の話題が表舞台に立ったことはない。
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「おにいたん♥︎、ねぇねぇ。放課後、ちょっと職員室まで行ってもいい?」
まだ制服を着崩す前のユリシアが、給水ボトルを抱えたまま和(なごみ)先生の袖を引いた。
「もちろんだよ。講義室の片づけが終わったら、一緒に行こうか」
和先生――穏やかなロマンスグレーの髪を軽くかき上げながら微笑む。私、と自称するその声色は相変わらず柔らかく、だが今日はわずかな緊張が混じっているようにも感じられた。
ユリシアの後ろで、金髪ツインテールの雫(しずく)が「ふん」と鼻を鳴らす。
「職員室? そ、その……私も、行くわよ。別に気になるわけじゃないけど、あんたがまた変なこと言わないか心配なだけ」
ツンと澄ました表情の裏で、返却された答案用紙(総合点トップの赤丸)がちらりとのぞく。
茉里絵(まりえ)は紫の瞳を細め、扇子で口元を隠して微笑んだ。
「まぁまぁ。せっかくだし皆で伺いましょう。ね、柚羽(ゆずは)さん?」
呼ばれた少女は、小さく肩を揺らした。茶色の髪に柔らかな光が差し、編み込んだ二本の三つ編みが揺れる――転入したばかりの彼女は、教室の端に置いた分厚いテキストから顔を上げる。ページの隅にはびっしりと万年筆のメモ。**和先生愛読の専門書、『仕訳の論理』**だ。
「わ、私も……よろしければ」
こうして四人の女子生徒と和先生は、まだ西日が差し込む準備室へ向かった。
1 「簿記って、そんなにすごいの?」
机の上には白封筒。差出人は商工会議所――来月の「日商簿記検定」願書一式だ。
「実は……来週から放課後、補講を設定しようと思っています」
和先生は椅子から立ち上がり、生徒たちをまっすぐ見渡した。
「商業科としての目標を掲げるなら、まず3級。さらに、挑戦したい人は2級も同日併願ができます」
ざわめく三人。ユリシアはきらきらと瞳を輝かせ、雫は腕を組みつつも明らかに乗り気の表情。茉里絵はゆったりと扇子を閉じ、了解の頷き。その横で――柚羽だけが、唇を噛みしめ俯いた。
「……私、まだ仕訳も怪しいんです。でも――」
震える声。彼女の家庭は地方で小さな商店を営み、前期は赤字だったと聞く。家計を守るために、本気で数字を学びたい。
「3級と2級を一度に、なんて……無謀じゃないでしょうか」
「無謀かどうかは取り組み方しだいです」
和先生は優しく微笑みつつ、しかし視線は真剣だ。
「3級の内容を正しく土台にすれば、その上に2級はきちんと建ちます。私は皆さんの努力を信じ、教材も時間も全力で提供します。挑戦するかは、あなた方が決めてください」
2 ぶっきらぼうな手
補講初日。準備室に置かれた長テーブルには仕訳カードが山積み。その背後で和先生の板書が始まった。
「ではまず、3級の範囲だけで30本、五伝票仕訳。ストップウォッチを回します」
――時計の音――
ユリシアはボールペンを構え、茉里絵は扇子を閉じて集中モード。柚羽の手は震え、最初の1本に十秒以上。
「スピードが足りないわね」
雫が隣から覗き込み、無言で自分のノートを差し出した。罫線ぎっしりの練習仕訳、色分けされた勘定科目。
「え……貸して、くれるの?」
「別に。余ったページだから。写すだけ写しなさい」
柚羽の胸に熱いものがにじんだ。雫が意地悪で差し出したのではないと分かる。――彼女は1年次から和先生の個別指導を受け、既に2級範囲に片足を突っ込んでいる。本来ならライバルのはずの手が、いま自分を助けている。
机上のタイマーが鳴った。
ユリシアは二十六本、茉里絵二十八本。雫は三十本を一分前に終わらせ、腕を組む。柚羽は――二十一本。だが最後の三本はノーミスだった。
3 和先生の回想
その夜、準備室の窓を開けると、春の匂いが流れ込む。教科書を積む柚羽に、和先生はそっと声をかけた。
「昔、私も似たようなことで悩みました」
淡い光の中、先生は遠い目をする。
「私の家は小さな部品工場で、小学生の頃から機械油まみれで働いていました。夜は居間で父の帳簿付けを手伝い、数字の意味を覚えたんです。――だから、柚羽さんの『家族を助けたい』気持ち、痛いほど分かります」
柚羽の瞳が揺れた。
「わ、私……負けたくないです。雫さんにも、自分の弱さにも」
「負けない方法はひとつ。今日より明日、少しだけ前に進むことです」
先生が指差したのは、黒板に残った赤チョークの言葉。
> 『正確さは速度を呼び、速度は自信を生む』
「焦らず、しかし歩みを止めないこと。私も伴走しますよ」
4 プロローグの終わりに
翌朝六時。まだ薄暗い講義室に、自主練に来た柚羽の前で電灯がパッと点いた。椅子の背にもたれる雫が片手でスイッチを押す。
「アンタ、来ると思った。――ほら、追加の練習問題。昨日間違えた論点、赤でマーキングしておいたから」
雫は照れ隠しのように頬を赤らめ、言葉を早口で畳みかける。
「と・特別なんだからね? 別に心配してるわけじゃ……っ」
「ありがとう、雫さん。私、絶対追いつくから!」
仕訳カードの音が響く。二人のペンが走る。まだ誰もいない朝の教室で、かすかな筆記音と心拍が重なる。
――その日、窓外の桜はそろそろ葉桜になりつつあった。だが彼女たちの胸の中には、新しい蕾が確かに芽吹いていた。