九月の土曜日、午前六時半。
朝露の残る森の遊歩道に、二人分の足音が響いていた。
「和先生、もう少しテンポを上げますよ♪」
「ええ……渚、まだ六時半なんだけど……」
「だからこそです。早朝は気温も低く、空気も澄んでいます。森林浴にも最適ですから」
前を歩く渚先生が、くるりと振り返る。
黒髪が朝日にきらりと光り、白と黒のスポーツウェアに包まれた姿は、体育教師らしく健康そのものだった。
「ほら、先生。あと三キロですよ」
「三キロ!?」
和先生の悲鳴に近い声が森へ響いた。
週末の二人には、去年の秋から続く習慣があった。
早朝ウォーキング。
名目はもちろん――和先生の健康管理である。
始めた当初は「毎週土曜日」の約束だったのに、冬が近づくにつれて足が遠のいた。
寒い、忙しい、今日はちょっと疲れている――そんな理由で和先生が休みがちになると、渚先生も強く言えなかった。
「お疲れなら、また来週にしましょうか」
そんなふうに笑って引き下がっていた。
けれど、今年に入ってからの渚先生は違う。
金曜日の夜になるとメッセージが届く。
『明朝6時30分、いつもの場所です。遅刻禁止です♪』
そして和先生が、
『今週はちょっと疲れているから……』
などと返信しようものなら、
『だから歩くんです』
と即答が返ってくる。
逃げ道はない。
「渚ぁ……今日は家でゆっくり――」
「だめです」
「まだ最後まで言ってないよ」
「どうせ『読書でもして過ごそうかな』でしょう?」
「……どうして分かったんだ」
「何年、先生を見てきたと思っているんですか?」
にっこり。
反論不能だった。
もっとも――和先生も本気で嫌がっているわけではない。
木漏れ日の中を並んで歩き、鳥の声を聞きながら他愛もない話をする。
学院では教師同士。
けれど、この時間だけは少し違う。
「先生、水分補給です」
「はいはい」
「『はい』は一回です」
「体育教師は厳しいなあ」
「先生が放っておくと運動しないからです」
渚先生は腰に付けていたボトルを差し出した。
和先生が苦笑しながら受け取る。
その姿を見ながら、渚は少しだけ胸を張った。
昨年の自分なら、ここまで言えなかった。
でも今は。
――私は、先生のパートナーなんだから。
昨年の誕生日。

ずっと夢見ていた人から告げられた言葉を、今でも覚えている。
これからの未来を、対等な立場で、隣を歩いていきたい。
あの日から、渚の中で何かが変わった。
先生の健康を心配することも。
生活を気にすることも。
こうして休日に強引に連れ出すことも。
もう「元教え子だから」でも「同僚だから」でもない。
これから先も隣にいる人だから。
だから遠慮なんてしない。
「さあ先生、休憩終了です!」
「えっ、もう?」
「あと二・五キロ♪」
「ええっ……まだそんなにあるの?」
「ありますよ。ほら、行きます!」
「渚ぁ……もう十分歩いた気がするんだけど……」
「気のせいです♪」
「渚は前向きだなあ……」
「先生が後ろ向きすぎるんです」
渚は思わず吹き出した。
「ふふっ……ほら、行きますよ!」
そう言って渚が手を差し出すと、和先生は少し困ったように笑いながら、その手を取った。
「まったく……渚にはかなわないな」
「今ごろ気づいたんですか?」
二人はそのまま、木漏れ日の続く道を並んで歩き始めた。
――幸せ。
本当に、幸せだった。
なのに。
渚の胸の奥には最近、小さな棘のようなものが刺さっていた。
三日後。
私は、三十歳になる。
十代の頃からずっと好きだった人。
二十代をほとんど丸ごと、その人を想いながら過ごして。
そしてようやく――その隣を歩けるようになった。
それなのに。
(先生は……私のことを、いったい何だと思っているんだろう)
パートナー。
確かに、そう言ってくれた。
二人きりの時には「渚」と呼んでくれるようにもなった。
でも。
恋人。
婚約者。
フィアンセ。
そういう言葉を、和先生は一度も口にしたことがない。
(……私だけが、先走っているのかな)
もちろん、そんな顔は見せない。
「先生! 背筋が曲がっていますよ!」
「はいっ!」
いつもの元気な渚先生だ。
けれど笑顔の奥で、ほんの少しだけ。
三十歳という節目を前にした一人の女性が、不安になっていた。
ウォーキングを終え、森の入口まで戻ってきた時だった。
「渚」
「はい?」
和先生が珍しく足を止めた。
「今度の二十二日……空いているか?」
心臓が跳ねた。
「え……はい。もちろんです」
「山奥に、渓流沿いの食事処があるらしいんだ」
「はい」
「水の音を聞きながら食事ができるみたいでね。景色もいいらしい」
和先生は眼鏡の位置を直しながら、どこか落ち着かない様子で続けた。
「誕生日だし……よかったら、二人でドライブしないか?」
「…………」
渚の思考が止まった。
二人で。
ドライブ。
渓流。
食事処。
誕生日。
頭の中で危険な単語が高速回転を始める。
「そ、それはもちろん! ぜひ!」
思わず大声になった。
「そ、そうか。よかった」
そして和先生は、少し迷ったあと。
今度は先ほどまでとはまるで違う、真剣な表情で渚を見た。
「それと……渚」
「……はい」
「その日、渚に大切な話があるんだ」
――大切な、話。
「…………え?」
それ以上、和先生は何も言わなかった。
その日の夜。
渚はベッドの中で、目を大きく開けたまま天井を見つめていた。
(大切な話って何!?)
時計を見る。
午前一時十二分。
(まさか……プロポーズ!?)
布団を頭まで被る。
(でも違ったら!?)
顔を出す。
(「これからも良い同僚として」なんて言われたら!?)
再び布団を被る。
(いやいやいや! 誕生日に二人で山奥の食事処までドライブして、大切な話って、それはもう……!!)
ばさっ!
布団を蹴り飛ばした。
「眠れるわけないじゃないですかぁぁぁ……!」
期待。
不安。
喜び。
怖さ。
三十歳になることなんて、もうどうでもよかった。
ただ一つだけ知りたい。
あの日、和先生が言ってくれた――
「これからの未来を、隣を歩いていきたい」
その言葉の続きを。
渚は、枕元の小箱にそっと手を伸ばした。
蓋を開けると、あの誕生日に先生がくれたロケットペンダントの中に収められた、小さな四つ葉のクローバーが月明かりに光っている。
指先でそっと触れ、それを胸の上にのせたまま、渚はようやく目を閉じた。
三日後。
私は、聞くことになるのだろうか。
――私がずっと待ち続けてきた、その続きを。
