別に、先生に言われたからじゃない

第3学年

放課後の教室で

六時間目の簿記の授業が終わった。

生徒たちが次々と教室を出ていく中、綾香は自分のノートを鞄へしまっていた。

「姫宮さん」

後ろから声を掛けられ、綾香は振り返る。

教卓の前に立っていたのは和先生だった。

「……何ですか?」

「いえ、大したことではないんですけどね」

和先生はいつもの穏やかな表情で微笑んだ。

「最近、みんなとずいぶん打ち解けてきたみたいですね」

「……そう見えます?」

「見えますよ。前より表情も明るくなりましたし」

綾香は返事をせず、視線だけを少し逸らした。

「以前は、何か一人で思い詰めているように見えることもあったので、私もちょっと心配していたんです。でも今は楽しそうですし……安心しました」

「……別に、前だって普通でしたけど」

「そうでしたか。それなら私の考えすぎですね」

和先生は素直に笑った。

その態度が、逆に少しだけ綾香を困らせる。

「この前の旅行も楽しかったみたいですし、良かったですね」

「……まあ。それなりには」

本当は、それなりどころではなかった。

みんなと一緒に笑って、写真を撮って、くだらないことで言い合って。

以前なら少し距離を置いて眺めていたような輪の中に、いつの間にか自分もいた。

けれど、それを正直に口にするのは何となく悔しい。

「ただ……」

和先生が少し考えるように首を傾げた。

「もう、あのピンク色の髪は見られないのかなと思うと、ちょっと残念ですけどね」

「……え?」

綾香の動きが止まった。

「最近はずっと元の髪色でしょう?」

「そ、それが何なんですか」

「何ってほどではないんですが」

和先生は困ったように笑った。

「ピンク色も、姫宮さんによく似合っていたので」

「べ、別に……ピンク色は先生には関係ないと思いますけどっ」

思っていた以上に強い声が出た。

和先生は一瞬目を丸くしたあと、慌てて手を振った。

「ごめんなさい。変なことを言いましたね」

「……」

「ただ普通に、似合っていて可愛いなと思っていたので」

「…………」

「それだけです。気にしないでください」

「……失礼します!」

綾香は鞄を掴み、そのまま教室を出た。

廊下へ出てからも、妙に耳が熱かった。

“ただ普通に” の破壊力

その日の夜。

自室の鏡の前で、綾香は自分の茶色い髪をつまんでいた。

『ただ普通に、似合っていて可愛いなと思っていたので』

「…………」

もう何回目だろう。

勝手に再生される。

しかも妙に鮮明に。

「意味分かんない……」

綾香は鏡の中の自分へ呟いた。

別に褒められたくらいでどうということはない。

服だって髪型だって、似合うと言われることくらいある。

単なる客観的評価。

それ以上でもそれ以下でもない。

――の、はずなのに。

『可愛いなと思っていたので』

「そこだけ繰り返すのやめてよ……!」

誰もいない部屋で、自分の頭に文句を言う。

この前は雫にも言われた。

『そういえば最近、あんた全然ピンク髪にしてないじゃない』

あの時は適当に誤魔化した。

別に深い理由なんてない。

旅行の頃から何となく地毛のままで過ごしていただけだ。

ピンクにしたくなれば、またすればいい。

ただそれだけ。

「……そう。だから、別に今ピンクにしてもおかしくない」

綾香は鏡へ向かって真顔で頷いた。

「季節の変化に伴うイメージ調整。十分合理的」

少し間を置く。

「……先生は関係ないし」

さらに間。

「……全然、関係ない」

誰に弁明しているのか、自分でもよく分からなかった。

数日後。

綾香の髪は久しぶりに鮮やかなピンク色へ戻っていた。

ひみつのおしゃべり部屋

その日の夜。

『グループチャット・ひみつのおしゃべり部屋』

綾香は、一枚の写真を投稿した。

綾香
綾香

山と水辺を背景に、長いピンク色の髪で振り返る私服姿の綾香

 

湖と山を背景に、私服姿で振り返る綾香。

そして何より目を引くのは、陽の光を受けて鮮やかに輝く、長いピンク色の髪だった。

添えた文章は、たった一言。

綾香
綾香

今日、ちょっと出かけてきた。

送信。

数秒後。

ユリシア
ユリシア

ええええっ!?💕
綾香ちゃん、髪ピンクになってるーーー!!

柚羽
柚羽

わあ……!😊
やっぱりピンクもすごく似合ってますね。

茉里絵
茉里絵

まあ……✨
これはまた、随分と突然ですわね。

少し遅れて。

雫

……は?

綾香は画面を見て眉をひそめた。

綾香
綾香

何。

雫

何じゃないでしょ。
この前私が「最近あんた全然ピンク髪にしてないじゃない」って言ったばっかりなんだけど?

綾香
綾香

それとこれに因果関係はありません。

雫

出たわね、因果関係。

ユリシア
ユリシア

でもほんと可愛い~💕
茶色の綾香ちゃんも好きだけど、ピンクになると雰囲気が全然変わるね!

柚羽
柚羽

うん。ちょっと華やかな感じになりますよね😊

茉里絵
茉里絵

それにしても、このタイミング……。
何かきっかけでもございましたの?☺️

綾香
綾香

ありません。

即答した。

雫

怪しい。

綾香
綾香

何が。

雫

誰かに何か言われたとか?

そのメッセージを見た瞬間。

綾香の手が止まった。

「誰かに何かって……」

スマートフォンを見つめたまま、小さく呟く。

綾香は普段、チャットである程度まとまった文章を書くとき、フリック入力をほとんど使わない。

音声入力の方が圧倒的に速い。

本人いわく、わざわざ小さな画面上で一文字ずつ入力するよりも、話した内容を文字に変換させ、誤変換だけ後から直した方が合理的だから、とのことだった。

短い返事ならキーボードを使うこともある。

けれど、少し長くなりそうなときは、ほとんど無意識にマイクのアイコンへ指が伸びる。

そして今も。

いつもの癖で、綾香は音声入力を起動した。

「別に、似合ってるとか可愛いとか言われたからピンクに戻したわけじゃ――」

そこで。

口が止まった。

「…………」

画面を見る。

今、自分がしゃべった内容が、そのまま文字になって並んでいた。

――似合ってるとか。

――可愛いとか。

綾香の顔から、さっと血の気が引く。

「ち、違……!」

慌てて消そうと画面に触れた。

ところが。

焦った指先が押したのは、削除ではなく――送信。

綾香
綾香

別に、似合ってるとか可愛いとか言われたからピンクに戻したわけじゃない。

「…………」

送ってしまった。

数秒間。

誰からも返信が来なかった。

嫌な沈黙だった。

そして。

雫

……は?

綾香
綾香

何。

雫

いや、「何」じゃないわよ。

雫

私、「誰かに何か言われた?」としか聞いてないんだけど。

柚羽
柚羽

あ……😊

ユリシア
ユリシア

あれっ……?

茉里絵
茉里絵

まあ。

綾香はスマートフォンを握ったまま固まった。

次の瞬間。

茉里絵
茉里絵

しずくさんは「何か」としかおっしゃっていませんのに、
「似合っている」と「可愛い」が出てまいりましたわね☺️

雫

そう! それ!!

雫

誰に言われたのよ!?

綾香
綾香

誰でもない。

ほとんど間を置かず返信した。

雫

今度は返事早っ!!

綾香
綾香

だから誰も言ってない。

雫

さっき自分から「似合ってるとか可愛いとか言われたからじゃない」って書いたくせに。

綾香
綾香

だからそう言ってるじゃないっ!
仮定の話だって!

雫

そういうのを「屁理屈」って言うのよっ!
往生際が悪いわよ、アンタ!

綾香
綾香

屁理屈じゃない!
論理的に説明してるだけ!

雫

どこが論理的なのよ!
自分で墓穴掘っといて!

綾香
綾香

墓穴なんて掘ってない!

雫

掘ったわよ!
しかも自分から飛び込んだのよ!

柚羽
柚羽

ふ、二人とも……😅

茉里絵
茉里絵

まあまあ、お二人とも……。
ずいぶん白熱していらっしゃいますわね☺️

雫

茉里絵は黙ってて!

綾香
綾香

そう。今はこの単細胞と話してるから。

数秒後。

雫

はぁぁぁ!?
何よその言い方!?

綾香
綾香

だって、さっきから人の話を聞かずに決めつけてばっかりじゃない。

雫

決めつけじゃないわよ!
あんたが自分から全部しゃべったんでしょうが!

綾香
綾香

全部じゃない!

雫

じゃあ残りは何なのよ!

綾香
綾香

何もない!

雫

ある言い方じゃない、それ!!

柚羽
柚羽

あの……二人とも、落ち着いて……😅

茉里絵
茉里絵

ふふっ。
旅行の頃より、ずいぶん息が合うようになりましたわね。

雫

合ってない!!

綾香
綾香

合ってない!!

一秒も違わず、二つのメッセージが並んだ。

ユリシア
ユリシア

ほら、ぴったりだよ~🤣💕

柚羽
柚羽

本当に同時ですね……😊

茉里絵
茉里絵

まあまあ……これは見事ですわ✨

雫

偶然よ!!

綾香
綾香

偶然です。

雫

そういうとこだけ合わせないでよ!

綾香
綾香

合わせてない。

雫

もうっ!!

チャット欄には、ユリシアの笑い転げるスタンプと、柚羽の困ったような笑顔のスタンプが並んだ。

しばらくして。

ユリシア
ユリシア

でも綾香ちゃん、最近ほんとによく笑うようになったよね😊
茶色の髪もピンクの髪も、どっちも綾香ちゃんらしくて可愛いよ!

そこで綾香の手が止まった。

さっきまで雫と言い争っていた勢いが、ふっと消える。

画面には、ユリシアの言葉。

――どっちも綾香ちゃんらしくて可愛い。

「…………」

今度は音声入力を使わなかった。

慣れない指先で、ゆっくりと短い文字を打つ。

綾香
綾香

……ありがと。

すぐに。

雫

あ、素直。

綾香
綾香

うるさい。

雫

で、結局誰に「似合ってて可愛い」って言われたの?😏

「…………」

綾香は無言でスマートフォンを伏せた。

そしてまた、頭の中で。

『ただ普通に、似合っていて可愛いなと思っていたので』

あの日の和先生の声が、勝手に再生される。

「……もう!」

枕に顔を埋める。

数秒後、ベッドの上でスマートフォンが震えた。

さらに一回。

さらにもう一回。

見なくても分かる。

どうせ雫だ。

「……絶対、言わないから」

誰に聞かせるでもなく、綾香は小さく呟いた。

結局その夜、綾香が再びチャットへ戻ってきたのは、それから三十分ほど経ってからだった。

もちろん。

ピンク色に戻した本当のきっかけだけは――

最後まで、誰にも話さなかった。