九月二十一日、午後十時。
誕生日まで、あと二時間。
水無瀬渚は、自室のベッドの上でスマートフォンを握りしめたまま、もう五分ほど同じ画面を見つめていた。
表示されている名前は――
凛ちゃん。
「…………」
電話しよう。
そう思って連絡先を開いた。
でも。
(こんな時間に迷惑じゃないかな……)
やめる。
三十秒後。
(でも明日になったら、もう……)
また開く。
そして閉じる。
開く。
閉じる。
「……何やってるんでしょう、私」
その瞬間だった。
スマートフォンが震えた。
『凛ちゃん』
「ひゃあっ!?」
危うくスマートフォンを落としかける。
慌てて通話ボタンを押した。
「も、もしもし!?」
『もしもし。渚ちゃん?』
聞き慣れた声だった。
『さっきから私に電話しようとして、やめて、また開いて……ってやってたでしょ?』
「な、なんで分かるの!?」
『なんとなく』
「怖いよ凛ちゃん!」
電話の向こうから、楽しそうな笑い声が聞こえた。
『で? 明日でしょ』
「……何が?」
『何が、じゃないわよ。誕生日』
「あ……うん」
『三十歳』
「そこ強調しなくていいから!」
『おめでたいじゃない。ついに大台』
「まだなってない!」
去年と変わらない。
その遠慮のなさに、渚は少しだけ肩の力が抜けた。
「それでね、凛ちゃん……」
『うん』
「和先生が、明日……誕生日だからって、二人で出かけようって」
一瞬、電話の向こうが静かになった。
『…………二人で?』
「うん」
『どこに?』
「山奥の、渓流沿いの食事処」
『ほう』
凛の声色が変わった。
「その『ほう』って何?」
『続けて』
「それで……食事して、ドライブして……」
『うんうん』
「あと……」
渚は枕を抱きしめた。
「三日前に、言われたの」
『何を?』
「……『その日、渚に大切な話があるんだ』って」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
『…………渚ちゃん』
「はい」
『それ、プロポーズでしょ』
「やっぱりそう思う!?」
渚は勢いよく立ち上がった。
『いや、他に何があるのよ』
「わ、分からないじゃない! もしかしたら学院のことかもしれないし!」
『誕生日に?』
「うっ」
『二人きりで?』
「うぅ……」
『山奥までドライブして?』
「…………」
『渓流沿いの食事処でご飯食べて?』
「…………はい」
『そのうえ三日前から「大切な話がある」って予告して?』
「…………はい」
『それで職員会議の話だったら、私が和先生を説教するわ』
「やめてよ!」
凛は声を上げて笑った。
『もう、渚ちゃんったら。去年もそうだったじゃない』
「……去年?」
『初デートの前。覚えてないの? あれこれ考えて、期待して、でも期待して傷つくのが怖いからって、最後は全部悪い方に考えてたじゃない』
「…………」
覚えている。
忘れるはずがない。
二十九歳の誕生日を目前にして。
初めて和先生と二人で出かけることになって。
嬉しくて。
怖くて。
結局、凛に延々と相談した。
あれから一年。
「でもね、凛ちゃん」
渚は少しだけ声を落とした。
「去年とは、ちょっと違うの」
『うん』
「今は……先生と、すごく近くなれたと思う」
二人きりの時には「渚」と呼んでくれる。
週末は一緒に歩く。
学院でも、以前よりずっと自然に言葉を交わせるようになった。
「去年の誕生日には、これからの未来を、対等な立場で隣を歩いていきたいって言ってくれたし……」
『じゃあ何を悩んでるの?』
「……そこなの」
渚は膝を抱えた。
「パートナーとは言ってくれた。でも……それ以上は、何も言ってくれてないの」
『それ以上?』
「恋人とか……」
小声になる。
「婚約者とか……」
さらに小声になる。
「フィアンセとか……」
『最後だけ急に横文字になったわね』
「そこはいいの!」
『はいはい』
「だから……」
渚は枕に顔を埋めた。
「私だけが、そのつもりだったらどうしようって……」
電話の向こうから、少し長いため息が聞こえた。
『渚ちゃん』
「はい」
『あんたねえ……体育教師だよね?』
「そうだけど」
『生徒には「怖がらず挑戦しましょう」とか言ってない?』
「……言ってる」
『「自分を信じて」とか』
「……言ってます」
『「一歩踏み出す勇気が大切です」とか』
「…………言ってます」
『自分が一番できてないじゃない』
「うわぁぁぁぁ!」
渚はベッドに倒れ込んだ。
「正論で殴らないでよぉ!」
『親友だから言うの』
「痛い!」
『言葉だけでしょ』
「心が痛いの!」
凛はまた笑った。
「じゃ、じゃあ私は明日、どうすればいいの?」
『そうねえ』
少し間があった。
『はい。恋愛相談二年目の凛先生から言わせてもらいます』
「いつから先生になったの!?」
『今』
「今!?」
『まず、変な予行演習は禁止』
「予行演習?」
『鏡の前で、「はい、喜んで!」とか百回練習するつもりでしょ』
「…………」
『するつもりだったんだ』
「だ、だって噛んだらどうするの!?」
『噛んだっていいでしょ!』
「一生に一度かもしれないのに!」
『まだプロポーズって決まってないけどね』
「凛ちゃん!!」
『あはははは!』
完全に遊ばれている。
でも。
不思議と、少し楽しかった。
ひとしきり笑ったあと。
凛の声が、少しだけ優しくなった。
『でもね、渚ちゃん』
「……うん」
『一年って、すごいよ』
「え?」
『去年の今頃、渚ちゃんは「初デートどうしよう」って震えてたの』
「……そうだったね」
『それが今は、毎週一緒にウォーキングして、二人きりなら名前で呼ばれて、誕生日には向こうからデートに誘われてる』
「…………」
『渚ちゃんが何もしなかった一年じゃないでしょ』
渚は黙って聞いていた。
『和先生だってそう。あの人なりに、少しずつ前に進んできたんじゃない?』
「……うん」
『だったら明日は、いつもの渚ちゃんでいなさい』
「いつもの……私?」
『そう』
凛は、はっきりと言った。
『笑って、ご飯食べて、くだらない話して。和先生が何を言うのかは、ちゃんと本人の口から聞く』
「…………」
『先回りして勝手に幸せになったり、勝手に絶望したりしない』
「……はい」
『それからハンカチ』
「ハンカチ?」
『二枚持っていきなさい』
「なんで二枚?」
『泣くから』
「泣かないよ!」
『去年も泣いたでしょ』
「それは……!」
『一枚じゃ足りないかもしれないから、二枚』
「そんなに泣く前提なの!?」
『あとウォータープルーフのメイク』
「凛ちゃん!」
『大事よ? せっかくの誕生日に、涙で目元真っ黒になったら困るでしょ』
「だから泣く前提で話を進めないで!」
電話の向こうから、楽しそうな笑い声が響いた。
でも。
渚も笑っていた。
さっきまで胸を締めつけていた不安が、少しだけ軽くなっていた。
「ねえ、凛ちゃん」
『ん?』
「ありがとう」
『何よ、急に』
「去年も、今年も……こうして話を聞いてくれて」
少しだけ間があった。
『当たり前でしょ』
凛はいつもの調子で答えた。
『親友なんだから』
その言葉に、渚の胸が温かくなった。
この一年。
特別な出来事なんてなくても。
落ち込んだ時。
浮かれすぎた時。
和先生の何気ない一言を、必要以上に深読みしてしまった時。
何度も凛に話を聞いてもらった。
そのたびに。
優しく。
時には呆れながら。
そして大抵は容赦なく。
背中を押してくれた。
「凛ちゃんって……本当に変わらないね」
『何よそれ』
「昔から、私がぐずぐずしてると、すぐ引っ張っていってくれる」
『だって渚ちゃん、放っておいたらずっとその場で悩んでるじゃない』
「そんなこと……」
『ある』
「即答しないでよ!」
二人の笑い声が重なった。
時計を見る。
午後十一時四十八分。
三十歳まで、あと十二分。
「凛ちゃん」
『なに?』
「もし……」
声が小さくなる。
「もし本当に……そういう話だったら」
『うん』
「一番最初に、凛ちゃんに報告するね」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
そして。
『じゃあ、電話の充電満タンにしとく』
「もう!」
『ティッシュも用意しとく』
「だから泣く前提やめて!」
『はいはい』
「もう……」
渚は笑った。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
あと少しで、三十歳。
去年の今頃は。
和先生との初めてのデートを前に、同じ親友へ不安をこぼしていた。

そして今年。
また同じ親友に背中を押されている。
一年で。
私は、どれくらい前へ進めたのだろう。
その答えは。
たぶん、明日分かる。
スマートフォン越しの凛の声を聞きながら、渚はそっと微笑んだ。
明日。
どんな言葉を聞くことになるのか。
まだ分からない。
それでも――。
去年よりは、ほんの少しだけ。
前を向いて、その日を迎えられそうな気がした。

