四人の約束と、まさかのプロポーズ未遂
1.おにいたん、どこ行くの?
九月二十二日、午後四時半。
和先生は書斎の鏡の前で、いつもより少しだけ念入りに身だしなみを確認していた。
鏡を見る。
シャツの襟を直す。
眼鏡を拭く。
上着の内ポケットに手を当てる。
そして、もう一度鏡を見る。
「……よし」
その背後から。
じぃぃぃぃぃっ。
強烈な視線を感じた。
「…………」
和先生がゆっくり振り返る。
廊下の壁から、水色の髪が半分だけ覗いている。
「ユリシア?」
びくっ。
髪が引っ込んだ。
「いや、いるよね?」
しばらくして、ユリシアがそろそろと顔を出した。
「……おにいたん」
「なに?」
「今日、どこか行くの?」
「え?」
「だって……」
ユリシアの青い瞳が、上から下まで和先生を観察する。
「いつものおにいたんより、ちゃんとしてる」
「普段の私はそんなにひどいのかい?」
「そういう意味じゃないよ!」
ユリシアは慌てて首を振った。
けれど、すぐに目を細める。
「でも、なんか怪しい」
「怪しいって……」
「眼鏡、さっきから三回拭いてるし」
「見てたの?」
「上着のポケットも何回も確認してる」
「…………」
「あと、朝から落ち着きがない」
「…………」
和先生は少し考えてから、観念したように答えた。
「今日は渚の誕生日だからね」
ユリシアの表情が止まった。
「……へ?」
「ちょっと食事に行ってくるんだ」
「…………誰と?」
「渚と」
「二人で?」
「そうだけど」
沈黙。
三秒。
「ふぅぅぅぅぅぅん」
「ユ、ユリシア?」
笑っている。
ものすごく笑っている。
しかし、目が笑っていない。
「そうなんだぁ♡」
「……うん」
「渚先生とぉ♡」
「うん」
「二人っきりでぇ♡」
「……そうです」
和先生の語尾がなぜか敬語になった。
「分かった! 楽しんできてね、おにいたん♡」
「あ、ああ……ありがとう」
ユリシアは満面の笑顔で自室へ戻った。
扉を閉める。
そして。
スマートフォンを取り出した。
グループチャットを開く。
『緊急招集』
送信。
十秒後。
雫。
『何!?』
さらに五秒後。
茉里絵。
『どうかなさいましたの?』
ユリシアは凄まじい速度で入力した。
『おにいたんが今日、渚先生と二人で誕生日デートに行く』
既読2。
沈黙。
そして。
雫。
『はああああああああ!?』
茉里絵。
『まあ。』
さらに続けて、
『それは看過できませんわね』
ユリシアは力強く入力した。
『集合』
雫。
『どこ』
茉里絵。
『何時までに参ればよろしくて?』
ユリシア。
『今』
こうして。
水面下で、作戦は開始された。
2.二人きりのはずでした
午後五時十分。
和先生が自宅を出る。
車のドアを開けようとした、その時。
「おにいたん♡」
背後から声がした。
「ん?」
振り返る。
ユリシアがいた。
その隣に雫。
さらに茉里絵。
三人とも、なぜか外出する気満々の格好で立っている。
「…………」
和先生は瞬きをした。
「どうしたの、みんな」
「偶然よ」
雫が即答した。
「いや、うちの前で?」
「偶然ですわ」
茉里絵が微笑んだ。
「三人揃って?」
「奇遇ってあるものですわね」
「そうかなぁ……」
ユリシアが助手席のドアを開けた。
「じゃ、行こう♡」
「……どこへ?」
和先生は、わざとらしく首を傾げた。
「渚先生のところ」
「渚先生? 何のことかな」
ユリシアの目が、すっと細くなる。
「おにいたん。さっき自分で言ったよね?」
「……そうだったかなぁ」
「とぼけてもダメだよ♡」
「…………はい」
見事に見抜かれた。
「でも、今日は渚と二人で――」
「お誕生日は大勢でお祝いした方が楽しいよね♡」
「ユリシア……」
「楽しいよね?」
圧。
「あ……はい」
「よし!」
雫はすでに後部座席のドアを開けていた。
「ほら茉里絵、乗るわよ」
「ええ」
「いや、ちょっと待って」
待たなかった。
三人とも乗った。
「…………」
和先生は、運転席側のドアの前で立ち尽くしたまま、しばらく空を見上げた。
なぜこうなった。
待ち合わせ場所。
渚は、淡いアイボリーのVネックニットワンピースに身を包んで立っていた。
生地には控えめな桃色の花があしらわれ、腰にはブラウンのベルト。肩には同じ色合いの小さなショルダーバッグを掛けている。
普段のスポーツウェアや教師としての装いとは少し違う、柔らかな雰囲気だった。
長い黒髪を夕暮れの風に揺らしながら、渚は何度も時計を確認する。
昨夜、凛から言われた言葉を思い出す。
『ハンカチは二枚』
もちろん持ってきた。
念のため三枚。
(べ、別にプロポーズされると決まったわけじゃないですけど……)
その時。
見覚えのある車が近づいてきた。
「あっ、先生――」
渚は笑顔で手を上げた。
車が止まる。
助手席のドアが開いた。
「渚先生、お誕生日おめでとうございます♡」
「…………」
ユリシアが降りてきた。
後部座席から雫。
「お、おめでと」
続いて茉里絵。
「お誕生日、心よりお祝い申し上げますわ」
最後に運転席から和先生。
「…………」
渚の笑顔が固まった。
一人。
二人。
三人。
四人。
自分を入れて五人。
「…………先生?」
「はい」
「今日は……」
「はい」
「二人で……」
「その予定でした」
「…………」
ユリシアが渚の手を取った。
「心配しないでください、渚先生♡」
「何をですか?」
「私たちも一緒です♡」
(そこを心配しているんじゃないんですぅぅぅぅ!!)
もちろん口には出さなかった。
体育教師として。
大人として。
三十歳になった女性として。
渚はにっこり笑った。
「まあ、皆さんまで……ありがとうございます」
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
凛からだった。
『楽しんでおいで。報告待ってる!』
渚は遠い目になった。
(凛ちゃん……)
画面を閉じる。
(この展開は聞いてません……)
3.疑惑の五人乗り
午後五時半。
車は山道へ向かって走っていた。
運転席、和先生。
助手席、渚。
後部座席には、ユリシア、雫、茉里絵。
最初の十分間は平和だった。
「今日は涼しくなったね」
和先生が言う。
「そうですね」
渚が答える。
「最近、朝晩は秋らしくなりました」
「ウォーキングにもいい季節になってきたね」
「そうですね。ですから来週から距離を少し――」
「ちょっと待った」
後部座席から雫。
二人が振り返る。
「なに?」
「さっきから何なの、その普通の会話」
「普通だから普通なんじゃないかな」
「そうじゃなくて!」
雫が身を乗り出す。
「今日、何のために二人で出かける予定だったのよ」
「渚の誕生日のお祝い」
「それだけ?」
「それだけって?」
「何か他にないわけ?」
和先生の肩が、ほんの少し揺れた。
茉里絵が見逃さなかった。
「和先生」
「はい?」
「今、動揺なさいました?」
「してません」
「していますわ」
「してないよ」
ユリシアも助手席の間から顔を出した。
「おにいたん」
「危ないから座ってなさい」
「何か隠してる?」
「隠してないよ」
「本当に?」
「本当です」
「どうして敬語なの?」
「…………」
渚が助け船を出した。
「まあまあ、皆さん。せっかくですから楽しく――」
三人の視線が一斉に渚へ向いた。
「…………」
「何でしょう?」
ユリシア。
「渚先生も知ってる?」
「何をでしょう?」
雫。
「今日の目的」
「誕生日のお祝いでは?」
茉里絵。
「本当にそれだけだと?」
「そ、そう伺っていますけれど……」
本当だった。
渚自身も、「大切な話」の内容は知らない。
けれど。
顔が赤い。
三人は同時に思った。
――怪しい。
和先生は咳払いした。
「ほら、景色が綺麗だよ」
雫が即答する。
「露骨に話そらした!」
茉里絵が頷く。
「これはますます何かございますわね」
ユリシアの青い瞳が輝く。
「絶対なんかある」
「ないってば……」
和先生の声が、どんどん小さくなっていった。
4.山奥の食事処
午後六時過ぎ。
五人は渓流沿いの食事処へ到着した。
古民家を改装した静かな店だった。
大きな梁。
飴色の柱。
障子越しの柔らかな灯り。
窓の外からは、絶えず渓流の音が聞こえてくる。
本来は二人分で予約されていた。
当然、店員も困った。
当然、和先生は平謝りした。
幸い広めの座敷が空いており、五人で座ることができた。
「よかったぁ」
ユリシアが嬉しそうに座る。
和先生は疲れ切った顔で呟いた。
「本当にね……」
渚はその隣で静かにお茶を飲んでいた。
(私の誕生日デート……)
三人増えた。
しかも全員、和先生を好きな女性である。
(なかなか経験できない三十歳の誕生日ですね……)
もはや笑うしかなかった。
料理が運ばれる。
岩魚の塩焼き。
山菜。
煮物。
鹿肉の炙り。
猪肉を柔らかく煮込んだ料理。
「わあ!」
ユリシアが目を輝かせた。
「おいしそう!」
「確かに、素晴らしいお料理ですわ」
茉里絵も満足そうだ。
雫は岩魚を眺めながら、
「これ骨多そう……」
と少し警戒している。
そして。
しばらくすると、不思議なことに空気は和らいだ。
美味しい料理には、人を黙らせる力がある。
「この鹿肉、美味しい!」
「ユリシア、食べすぎないようにね」
「おにいたんも食べてみて!」
「先生、この煮物も美味しいですよ」
「本当ですね」
「雫さん、その岩魚は背中側から箸を入れると――」
「茉里絵、詳しいわね」
笑い声も出るようになった。
そして。
問題の瞬間は、何気なく訪れた。
5.左手の薬指
食後のお茶が運ばれてきた頃。
渚が、何気なく左手を見た。
そして。
薬指を親指でそっとなぞった。
一度。
二度。
三度。
それを、茉里絵が見ていた。
「……渚先生」
「はい?」
「先ほどから何度も、左手の薬指を触っていらっしゃいますわね」
「えっ!?」
渚が慌てて手を引っ込めた。
雫の眉が上がる。
「左手の……薬指?」
ユリシアも見る。
「渚先生?」
「い、いえ! これはその……!」
昨夜。
凛との電話で。
『もし指輪出されたらどうすんの?』
などと言われ。
それ以来。
自分でも気づかないうちに、何度も薬指を意識していたのだ。
「違うんです!」
「何が違うんですの?」
「何でもありません!」
顔が真っ赤になった。
雫が渚を見る。
次に和先生を見る。
和先生は目を逸らした。
雫の目が細くなる。
「…………ちょっと待って」
「なに?」
「まさか」
茉里絵も何かに気づいた。
「……そういうことですの?」
ユリシアだけが二人を交互に見る。
「どういうこと?」
雫が和先生を指差した。
「ねえ、あんた」
「先生です」
「今それどうでもいい」
「はい」
「今日、渚先生に……」
一拍。
「プロポーズする気だったんじゃないでしょうね?」
しん。
川の音だけが聞こえた。
和先生。
停止。
渚。
停止。
ユリシア。
停止。
茉里絵。
和先生の表情を観察。
「…………」
雫の顔色が変わった。
「その顔」
「いや」
「その顔は何よ」
「これは……」
「当たりなの!?」
「いや、その……」
茉里絵が静かに追撃する。
「和先生。『違います』とは、おっしゃらないのですね」
「…………」
ユリシアがゆっくり立ち上がった。
「おにいたん?」
「はい」
「プロポーズ?」
「いや、まだしてないよ」
全員が固まった。
雫。
「……『まだ』?」
和先生。
「…………あ」
茉里絵が静かに手を合わせた。
「自白なさいましたわね」
「違う、今のは!」
「何が違うのよ!」
「おにいたぁぁぁん!?」
そして。
和先生は観念した。
眼鏡を外す。
ハンカチで拭く。
もう一度かける。
深く息を吐いた。
「……はい」
四人が見つめる。
「実は今日」
和先生は、渚を見た。
「食事のあとで……渚に、結婚を申し込もうと思っていました」
6.爆発
沈黙。
数秒。
最初に反応したのは。
渚だった。
「…………え?」
声が震えた。
「先生……今……」
「渚」
「私に……?」
和先生は頷いた。
「はい」
渚の赤い瞳がみるみる潤んだ。
「……本当に?」
「本当です」
「先生……」
一粒。
涙が頬を伝った。
「私……」
両手で口元を覆う。
「私……ずっと……」
そして。
「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁ!!!」
ユリシアの声が、古民家に響き渡った。
「ユ、ユリシア?」
「おにいたん!」
「はい!」
「どういうつもりなの!?」
「どういうつもりって……」
「約束は!?」
「約束?」
「みんなの約束!」
雫も立ち上がった。
「そうよ!」
さらに。
「っていうか、ちょっと待って!」
雫が頭を抱えた。
「プロポーズ!? 本当に!? マジで!?」
茉里絵は静かに湯呑みを置いた。
「ただいまの状況を整理いたしますわ」
「茉里絵?」
「渚先生――求婚予定を知り、感極まって涙」
渚。
「うぅ……」
「ユリちゃん――紳士協定違反の疑いにより激怒」
ユリシア。
「そう!」
「雫さん――状況を理解できず混乱」
雫。
「分かってるわよ!」
「和先生――完全に包囲」
和先生。
「……はい」
「そして私――実況を担当しておりますわ」
雫が振り返る。
「なんであんたそんな冷静なのよ!」
「誰か一人くらい冷静でなければ、この座敷が崩壊いたしますもの」
正論だった。
7.紳士協定、まさかの既知
ユリシアは和先生へ詰め寄った。
「おにいたん! 去年の春、私、ちゃんと言ったよね!?」
「何を?」
「みんながおにいたん♡のこと好きみたいって!」
雫。
「…………え?」
茉里絵。
「…………まあ?」
渚。
「…………え?」
三人の視線が、今度はユリシアへ集まった。
ユリシアは続ける。
「それで、卒業まではみんな平等におにいたん♡との思い出を作ってもいいって、みんなで約束したことも!」
雫の顔から血の気が引いた。
「ちょ……待って」
「うん?」
「それ……和先生に言ったの?」
「言ったよ?」
「いつ?」
「去年の春」
「…………」
雫の口が開いた。
閉じた。
また開いた。
「去年の……春?」
「うん」
雫の頭の中で。
この一年間の記憶が高速再生された。
和先生の前で強がった自分。
わざと近づいた自分。
妙に可愛い服を選んだ自分。
気を引こうとして失敗した自分。
そして何より。
「あのおっさんなんて別にどうでもいいし!」
と何度言ったか分からない自分。
「…………」
雫の顔が真っ赤になった。
「じゃ……じゃあ……」
和先生を見る。
「知ってたの?」
「何を?」
「私が……その……あんたのこと……」
声がどんどん小さくなる。
「好き……みたいな……」
和先生は非常に困った顔をした。
「ユリシアから、そういう話は聞いていました」
「うわああああああああああ!!」
雫が両手で顔を覆った。
「最悪!!」
「雫?」
「見ないで!」
「見てないよ」
「聞かないで!」
「何を!?」
「去年の私を全部返してぇぇぇぇ!!」
茉里絵が実況する。
「雫さん、過去一年間の言動を脳内再生し、自爆なさっております」
「実況すんなぁ!」
渚も涙を拭きながら、ユリシアを見た。
「ユリシアさん……先生に、私たちの気持ちを?」
「うん」
「先生……ご存じだったんですか?」
和先生は視線を泳がせた。
「まあ……ある程度は」
「…………」
渚の顔まで赤くなる。
これまで。
「健康管理です」と称して連れ出したこと。
コーヒーを淹れ続けたこと。
少しでも女性として見てもらおうと努力したこと。
全部。
全部。
「先生……」
「はい」
「どこまで……気づいていたんですか?」
「いや、本当に最近までよく分かってなくて――」
「最近は分かっていたんですね!?」
「あっ」
茉里絵。
「二件目の自白ですわ」
「茉里絵さん、お願いだから実況やめてください!」
「申し訳ございません。つい」
8.ところで、おにいたんは約束をどこまで知っていたの?
ひとしきり騒いだあと。
茉里絵が静かに手を挙げた。
「一点、確認してもよろしいでしょうか」
全員が黙る。
「和先生」
「はい」
「ユリちゃんから、私たち四人の約束について、どこまでお聞きになっていたのです?」
「どこまで……?」
「はい」
和先生は記憶をたどった。
「みんなが私のことを……その……好意的に思ってくれているらしいということ」
雫。
「『好意的』って言うなぁ……!」
「それから、卒業までは皆が平等に私との思い出を作る約束をした、と」
ユリシアが頷く。
「うん! それ言った!」
茉里絵。
「では――」
扇子を開く。
「卒業するまでは、和先生ご自身も誰か一人を選ばない――という部分は?」
和先生。
「…………」
ユリシア。
「…………」
和先生が首を傾げた。
「それは……初耳ですが」
三人。
「え?」
ユリシア。
「…………あれ?」
雫。
「ちょっと」
茉里絵。
「ユリちゃん?」
渚。
「ユリシアさん?」
ユリシアの額に汗が浮かんだ。
「…………」
記憶をたどる。
去年の春。
『みんな……おにいたん♡のことが好きみたい……』
そう言った。
『でも心配しないで! 私が許可したから!』
言った。
『卒業まではみんなが平等におにいたん♡と思い出を作ってもいいって約束したの!』
言った。
そのあと――。
「…………」
ユリシアが小さく呟いた。
「もしかして……」
全員が身を乗り出す。
「卒業まで、おにいたんは誰も選んじゃダメってところ……」
間。
「言ってなかったかも」
静寂。
そして。
「ユリシアァァァァァァァ!!!」
雫の絶叫が響いた。
「ご、ごめぇぇぇん!」
「一番大事なところじゃない!」
「だって伝わってると思ったんだもん!」
「伝わるか!」
和先生が呆然としている。
「ということは……」
茉里絵が頷いた。
「和先生は紳士協定の存在自体はご存じでしたが、最重要事項をご存じなかった」
「事項って……」
「結果として、今回の求婚計画は故意の協定違反ではない」
和先生が少し救われた顔をした。
「そういうことになりますね」
ユリシア。
「でもダメ!」
和先生。
「えっ」
「今知ったんだから、もうダメ!」
「はい」
即答だった。
9.嬉しい。でも――
騒ぎが一段落した時。
渚はずっと黙っていた。
頬にはまだ涙の跡が残っている。
「渚……」
和先生が声をかける。
「ごめん。こんな形で知ることになるとは思ってなくて」
「いいえ」
渚は首を振った。
そして少し笑った。
「私……嬉しいです」
ユリシアたちが静かになる。
「先生が今日、私に……」
言葉にするとまた涙が出そうになった。
「結婚を申し込もうと思ってくださっていた」
胸に手を当てる。
「それだけで……今は十分です」
「渚……」
「だって私、ずっと先生が好きでしたから」
声が震えた。
「学生の頃から、ずっと」
雫も茉里絵も。
ユリシアも。
そのことを知っている。
「本当は……」
渚は笑った。
泣きながら。
「今すぐ『はい』って言いたいくらい嬉しいです」
ユリシアの表情が少し曇る。
けれど渚は続けた。
「でも」
ユリシアを見る。
雫を見る。
茉里絵を見る。
「約束しましたから」
「渚先生……」
「私だけ抜け駆けして幸せになるのは……違うと思います」
ユリシアの瞳が潤んだ。
「せっかくユリシアさんが、私たちにも先生を好きでいる時間をくれたんですもの」
「先生」
渚は和先生へ向き直った。
「今日、言おうとしてくださった言葉」
「……うん」
「卒業まで……預かっておいていただけますか?」
和先生は少し驚いた。
そして。
静かに頷いた。
「分かりました」
渚は笑った。
「でも」
「はい?」
「一つだけ」
「なに?」
「今日、私にプロポーズしようと思ってくださっていた事実は……」
顔が赤くなる。
「忘れませんから」
和先生の顔も赤くなった。
「……はい」
雫。
「うわぁ……」
茉里絵。
「これは強烈ですわね」
ユリシア。
「むぅぅ……!」
恋の戦いは。
むしろここから、さらに激しくなりそうだった。
10.紳士協定・再確認
茉里絵が扇子で机を軽く叩いた。
「では、この機会に改めて確認いたしましょう」
雫。
「何を?」
「紳士協定ですわ」
ユリシアが手を挙げる。
「はい!」
「第一に」
茉里絵。
「卒業までは、それぞれが和先生との思い出を自由に作る」
「異議なし」
雫。
「第二に、お互いの邪魔はしない」
「……今日のこれは?」
和先生が小さく手を挙げた。
「緊急事態です!」
ユリシアが即答した。
「第三に、結果がどうなっても友人関係を壊さない」
ユリシア。
「うん!」
そして。
茉里絵は和先生を見る。
「第四」
「私?」
「和先生は、卒業までは最終回答を出さない」
「私も協定に加入するんですか?」
四人。
「当然です!」
「はい」
加入が決定した。
「では最後に」
ユリシアが人差し指を立てた。
「おにいたん!」
「はい」
「ちゃんとみんなを見ること!」
「……分かった」
「私も!」
雫。
「私もだからね!」
茉里絵。
「私のことも、お忘れなく」
渚は少し恥ずかしそうに。
「……私も、引き続き頑張ります」
和先生は。
四人を順番に見た。
そして苦笑した。
「なんだか……大変なことになったなぁ」
雫。
「今さら!?」
久しぶりに全員が笑った。
11.夜の川辺
食事を終えた頃には、午後八時を回っていた。
五人は腹ごなしに、渓流沿いの遊歩道を歩いた。
本来なら。
ここを二人で歩き。
和先生はどこか静かな場所で。
渚に大切な言葉を伝える予定だった。
けれど今。
先頭ではユリシアと雫が言い争っている。
「だからユリシアがちゃんと全部説明しないからでしょ!」
「ごめんってばぁ!」
「『ごめん』でプロポーズ未遂が起きる!?」
「未遂って犯罪みたいに言わないでよ!」
少し後ろでは茉里絵。
「本日の事件名としては『渚先生三十歳誕生日・求婚未遂事件』が――」
「茉里絵!」
さらに後ろ。
和先生と渚が並んでいた。
「ごめんね」
和先生が小さく言う。
「何がですか?」
「こんな誕生日になってしまって」
渚は少し考えた。
そして笑った。
「いいえ」
夜の川面を見る。
「一生忘れられない誕生日になりました」
「……それは間違いないね」
「それに」
渚はほんの少しだけ、和先生との距離を縮めた。
「先生のお気持ちは、聞けましたから」
和先生は何も言わなかった。
ただ。
渚がそっと差し出した手を、静かに握り返した。
二人はそのまま、しばらく並んで歩いた。
その前方から。
「渚先生! 近い!」
ユリシアの声。
二人が離れる。
雫。
「油断も隙もないわね!」
茉里絵。
「ふふふっ、どうやら初日から厳しい監視が必要みたいですわね♪」
渚。
「もう……!」
夜の山に。
五人の笑い声が響いた。
帰り道――五つの胸の内
車は山道を下っていく。
運転席には和先生。
助手席には渚。
後ろにはユリシア、雫、茉里絵。
誰も口には出さなかった。
けれど。
五人それぞれの胸には。
まったく違う思いが渦巻いていた。
和先生
――まさか。
こんなことになるとは思わなかった。
今日は渚の三十歳の誕生日。
ずっと考えていた。
これから先。
誰と人生を歩いていきたいのか。
私なりに出した答えだった。
渚となら。
穏やかに歳を重ねていける。
そう思った。
その気持ちは今も変わっていない。
でも。
私は知らなかった。
いや。
正確には、知っているつもりだった。
ユリシアから聞いていた。
みんなが私を大切に思ってくれているらしいこと。
卒業までは、みんなが平等に思い出を作ると約束したこと。
でも。
私は、「最後は自分が選ぶ」という言葉の意味を取り違えていた。
卒業の日までは答えを出さずに待つ――。
そこまでは、分かっていなかった。
そして。
ユリシア。
雫。
茉里絵。
渚。
四人の顔を思い浮かべる。
私は――。
自分が思っていた以上に。
この四人の人生に深く関わってしまったのかもしれない。
だったら。
曖昧にはできない。
卒業の日。
私はきちんと向き合おう。
逃げずに。
一人の男として。
自分の答えを伝えよう。
……しかし。
それまであと半年近く。
「……長いなぁ」
思わず声が漏れた。
「先生?」
助手席の渚が振り向く。
「いや、何でもないよ」
バックミラーを見る。
四人全員と目が合った。
……やっぱり長そうだ。
渚
――先生が。
私に。
プロポーズしようとしてくれていた。
思い出すだけで。
また涙が出そうになる。
嬉しい。
本当に。
本当に嬉しい。
十代の頃から好きだった人。
ずっと追いかけ続けた人。
その人が今日。
私との結婚を考えてくれていた。
それだけで。
これまでの時間全部が報われたような気がする。
でも。
まだ終わりじゃない。
ユリシアさん。
雫さん。
茉里絵さん。
みんな本気だ。
私だけ先に答えをもらってしまうのは。
やっぱり違う。
だから待つ。
卒業まで。
でも――。
ふふ。
先生。
今日のこと。
私は絶対に忘れませんよ。
先生が。
私を人生の伴侶に選ぼうとしてくれたこと。
それだけは。
誰にも奪えない、私の大切な思い出です。
それから。
凛ちゃん。
帰ったら電話します。
たぶん。
三枚持ってきたハンカチ。
全部使うことになりそうです。
ユリシア
――怖かった。
本当は。
すごく怖かった。
おにいたんが。
渚先生を選んじゃうのかと思った。
私はおにいたんと婚約してる。
ずっとお嫁さんになるって信じてる。
でも。
みんなの気持ちも嘘じゃない。
だから私が言ったんだ。
卒業するまでは。
みんなで思い出を作ろうって。
最後は、おにいたん自身の気持ちを聞こうって。
なのに。
一番大事なところ。
おにいたんに言ってなかったなんて……。
私のバカぁぁぁ!
でも。
今日、間に合ってよかった。
渚先生。
本当に嬉しそうだった。
あんな顔を見たら。
「ダメ!」って言うの。
ちょっとだけ苦しかった。
私。
渚先生のことも好きだから。
幸せになってほしい。
でも。
私だって。
おにいたんが大好き。
だから。
ごめんなさい、渚先生。
私。
やっぱり譲れないよ。
卒業の日。
最後におにいたんの隣にいるのは――。
私でありたい。
だから。
それまでは。
正々堂々。
みんなで頑張ろうね。
おにいたん♡
覚悟しててね。
雫
――死にたい。
いや。
死なないけど。
でも。
恥ずかしすぎる。
去年の春から知ってた?
あのおっさん。
私が。
その。
あいつのことを……。
好き……なの……。
知ってた?
じゃあ何?
この一年。
私がツンツンするたびに。
「また雫は照れてるな」とか思ってたわけ?
いやぁぁぁぁぁぁ!!
無理!!
顔見られない!!
明日から学院どうすんのよ!!
……でも。
渚先生にプロポーズしようとしてたんだ。
本気だったんだ。
胸が痛かった。
思ってた以上に。
やっぱり私。
和先生のこと。
本当に好きなんだ。
悔しい。
でも。
まだ終わってない。
卒業までは、まだ時間がある。
だったら。
逃げない。
今日、渚先生にプロポーズしようとしてたことなんて忘れるくらい。
これから私のことを、ちゃんと見てもらう。
そして最後には。
「雫がいい」って、あんた自身に言わせてやる。
だから。
ちゃんと見てなさい。
和先生。
茉里絵
――なるほど。
本日は実に興味深い一日でしたわ。
渚先生への求婚計画。
ユリちゃんの紳士協定。
それを部分的にしか知らなかった和先生。
そして。
自らの好意が一年以上前から和先生に知られていたと知り。
現在、後部座席の隅で魂が抜けている雫さん。
……ふふ。
笑ってはいけませんわね。
私も同じなのですから。
和先生は。
私の気持ちも。
ある程度はご存じだった。
そう考えると。
私も急に恥ずかしくなってまいりました。
けれど。
今日、分かったことがあります。
渚先生の涙は。
とても綺麗でした。
十年以上。
一人の方を想い続けてきた女性の涙。
あれを見て。
私は少しだけ。
負けても仕方がないと思ってしまいました。
でも。
それとこれとは別ですわ。
淑女たるもの。
勝負の前から敗北を認めるわけにはまいりません。
ユリちゃん。
雫さん。
渚先生。
そして私。
卒業の日まで。
あと少し。
さて。
和先生。
最終的にどなたをお選びになるのでしょう。
――それまでは。
この奇妙で。
騒がしくて。
でも。
どこか愛おしい関係を。
もう少しだけ。
楽しませていただきましょう。
山を下りきった頃。
遠くに街の灯りが見え始めた。
本来なら。
この夜。
一つの恋に答えが出るはずだった。
けれど。
答えは。
もう少しだけ先へ持ち越された。
ユリシア。
雫。
茉里絵。
渚。
そして。
和先生。
五人を乗せた車は。
それぞれの想いを抱えたまま。
静かな夜の道を走っていった。
卒業の日。
本当の答えが出る、その時まで――。




