1.報告待ってる!
九月二十二日、午後十時四十七分。
長い一日を終えて自宅へ戻った渚は、自室のベッドに腰を下ろした。
「…………」
ぼんやりと左手を見る。
薬指には、何もない。
もちろん分かっている。
今日はプロポーズされていない。
婚約したわけでもない。
それなのに。
「……ふふっ」
頬が勝手に緩んでしまう。
――実は今日。
――食事のあとで……渚に、結婚を申し込もうと思っていました。
何度思い出しても、胸の奥が熱くなる。
「先生……」
枕を抱きしめる。
「私に……プロポーズするつもりだったんだ……」
もう一度。
「ふふっ……」
そして。
「…………」
今度は少しだけ頬を膨らませた。
「でも、されてないんですよねぇ……」
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
しかし、何とも言えない。
人生でこんな感情になる日が来るとは思わなかった。
その時。
机の上に置いたスマートフォンが震えた。
画面を見る。
凛ちゃん
メッセージが一件。
『で?』
「…………」
たった一文字だった。
さらに。
『報告』
さらに。
『まだ?』
「凛ちゃん……!」
昨日、自分で言ったのだ。
――もし本当にそういう話だったら、一番最初に凛ちゃんに報告するね。
凛は、
――電話の充電満タンにしとく。
そう答えた。
「……よし」
渚は深呼吸した。
ビデオ通話ボタンを押す。
一回。
呼び出し音が鳴り終わるより早く、画面に凛の顔が映った。
『もしもし!?』
「早っ!」
『待ってたんだから当たり前でしょ!』
「まだ一回も鳴ってないよ!?」
『そんなことどうでもいいの!』
凛の声が弾む。
そして開口一番。
『で、指輪は!?』
「…………」
渚は左手を見た。
『渚?』
「……ありません」
沈黙。
『…………は?』
「ありません」
『…………』
嫌な予感がした。
『和ぃぃぃぃぃぃぃぃ!!』
「先生を呼び捨てで怒鳴らないでぇぇぇ!」
2.二人きりじゃなかったんです
『ちょっと待って。整理するから』
凛の声が急に低くなった。
『昨日聞いた話では、今日、和先生と二人で山奥までドライブ』
「はい」
『渓流沿いの食事処』
「はい」
『しかも本人から「大切な話がある」』
「はい」
『なのに指輪なし』
「……はい」
『プロポーズなし』
「…………はい」
『何があったの?』
「それが……」
渚は少し言いにくそうに答えた。
「二人じゃなくなりまして」
『…………は?』
「五人になりました」
『増えすぎでしょ!?』
「私もそう思います!」
渚は今日の出来事を最初から説明した。
和先生が出かけようとしていたところを、ユリシアが察知したこと。
すぐに雫と茉里絵へ緊急招集をかけたこと。
三人が和先生の車へ乗り込んだこと。
そして待ち合わせ場所へ現れた車から――。
和先生ではなく、まずユリシアが降りてきたこと。
『ちょっと待って』
凛が遮った。
『その時の渚の顔、見たかった』
「見なくていいです!」
『写真ないの?』
「ありません!」
『絶対いい顔してたでしょ』
「笑顔のまま固まりました!」
『あはははははは!』
「笑い事じゃないですぅ!」
『ごめんごめん。でも……あははは!』
「全然反省してない!」
しばらく電話の向こうから笑い声が続いた。
「私、本当にびっくりしたんですからね!」
『そりゃするわよ。彼氏候補との誕生日デートに、恋のライバル三人追加って何よ』
「しかも全員、先生のこと好きなんですよ……」
『地獄じゃない』
「そんな言い方しないでください!」
『いや、渚にとってはでしょ』
「…………ちょっとだけ」
『ちょっとなんだ』
「みんな大切な子たちですから」
その返事を聞いて。
凛は少しだけ声を柔らかくした。
『……そこが渚なんだよね』
「え?」
『なんでもない。続けて』
3.そして、バレました
「それで食事をして……」
渚は今日の出来事を順番に説明していった。
岩魚。
山菜。
鹿肉。
猪肉。
少しずつ緊張が解けて。
みんなで楽しく食事をしていたこと。
『うん』
「その頃には、私も……まあ、今日はこれでいいかなって思い始めていたんです」
『本当に?』
「…………」
『渚?』
「ほんのちょっとだけです」
『だと思った』
「だって!」
昨日から期待していたのだ。
三十歳の誕生日。
二人きりのドライブ。
大切な話。
期待するなという方が無理だった。
「それで私、無意識に……左手の薬指を触っていたみたいで」
電話の向こうが静かになる。
『…………あんた』
「はい」
『可愛すぎない?』
「やめてください!」
顔が熱くなった。
「それを茉里絵さんに見つかって……」
『あー』
「雫さんが先生の顔を見て……」
『あーあー』
「それで――」
渚は一度、言葉を止めた。
今から口にするだけなのに。
また胸がいっぱいになる。
「雫さんが聞いたんです」
『何て?』
「今日、渚先生にプロポーズする気だったんじゃないでしょうねって」
『…………』
「先生、最初は誤魔化そうとしたんですけど」
『うん』
「そのうち、うっかり……『まだしてない』って」
『…………』
「それで全部バレました」
数秒。
沈黙。
そして。
『和先生ぇぇぇぇぇ!!』
「今度は何ですか!?」
『詰めが甘い!!』
「そこ!?」
『何よ「まだしてない」って! それ自白じゃない!』
「茉里絵さんも同じこと言ってました……」
『でしょうね!』
渚は思わず笑った。
「でも……」
声が自然と小さくなった。
「そのあと先生、ちゃんと言ってくれたんです」
『……何て?』
渚は目を閉じた。
もう一度、あの声を思い出す。
「『実は今日、食事のあとで……渚に、結婚を申し込もうと思っていました』って」
電話の向こうが。
静かになった。
今度の沈黙は、さっきまでとは違った。
「凛ちゃん?」
『…………よく言った』
「え?」
『和先生』
凛の声は、意外なほど真面目だった。
『それ、みんなの前で言ったんでしょ?』
「うん」
『ユリシアちゃんも、雫ちゃんも、茉里絵ちゃんもいるところで』
「……うん」
『逃げずに?』
「うん」
『渚本人を見て?』
「…………うん」
目頭が、また少し熱くなる。
『だったら』
凛は言った。
『そこはちゃんと評価してあげなきゃね』
「……うん」
「でもね、凛ちゃん。話はそれだけじゃなくて……」
『まだあるの!?』
「ずっと前だけど、凛ちゃんにも話したでしょう? 私たち四人には、“紳士協定”みたいな約束があるって」
『ああ、あれね。卒業まではみんなで正々堂々、和先生との思い出を作るっていうやつでしょ?』
「そう。それが……ユリシアさん、去年の春に先生にも話してたみたいなんです」
『え?』
「私たち全員が先生のことを好きなことも、卒業までは平等に思い出を作ることも」
『ちょっと待って。じゃあ和先生、前から知ってたの!?』
「ある程度は……」
『うわぁ……』
「それで、もっとすごいことが分かって」
『何よ』
「“卒業するまでは、先生も誰か一人を選ばない”っていう一番大事なところだけ……ユリシアさん、先生に言ってなかったんです」
数秒の沈黙。
『…………一番大事なところじゃん!!』
「雫さんも全く同じこと言ってました……」
『そりゃ言うわよ!』
渚は思わず苦笑した。
「だから先生としては、協定を破るつもりだったわけじゃなかったみたいで……」
『なるほどねぇ……』
凛は深いため息をついた。
『何よそれ。恋愛ドラマよりややこしいじゃない』
「……でしょう?」
『はぁ……まあ、いいわ』
気を取り直すように、凛が小さく咳払いをした。
『それはそれとして』
4.凛ちゃん判定
『和先生の今回の行動、採点するわ』
「……採点?」
『そう』
電話の向こうで、何かを書く音がした。
「何してるの?」
『採点』
「採点!?」
『水無瀬渚・三十歳誕生日における和先生の行動評価』
「そんなもの作らないで!」
『まず――誕生日に二人きりで食事へ誘った』
「はい……」
『十点』
「何点満点!?」
『百点』
「低い!」
『普通だから』
「厳しい!」
『次。「大切な話がある」と事前予告』
「はい」
『五点』
「さらに低い!」
『渚を三日間寝不足にしたから減点』
「それは確かに……」
『そして、プロポーズを計画していた』
凛の声が少し弾む。
『三十点』
「おお……!」
『さらに』
少し間を置いて。
『三人に追及されても、最後にはちゃんと「渚に結婚を申し込むつもりだった」と本人の前で言った』
「…………」
『これは四十点』
「高い!」
『当たり前よ』
凛はきっぱり言った。
『あの和先生でしょ?』
「どういう意味!?」
『あんたが学生の頃から何年追いかけても、全然進まなかったあの人が』
「言い方!」
『しかも、他の三人が自分を好きだって分かってる場でしょ? そこで「渚を選ぶつもりだった」って事実を口にするのは、かなり勇気いるわよ』
渚は黙った。
そうだった。
あの時。
先生は。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。
「勘違いだよ」
そう言うことだってできた。
それでも。
自分を見て。
はっきり言ってくれた。
――渚に、結婚を申し込もうと思っていました。
「……うん」
渚の口元に、また笑みが浮かんだ。
「嬉しかった」
『でしょうね』
「すごく」
『でしょうねぇ』
「……泣いちゃった」
『でしょうねぇぇ』
「何、その言い方!」
『で?』
「え?」
『ここまで八十五点』
「さっき十足す五足す三十足す四十……八十五ですね」
『体育教師なのに、こういう時だけ暗算きっちり確認するのね』
「体育教師を何だと思ってるの!?」
『問題は残り十五点』
凛の声が低くなった。
嫌な予感がする。
『その場で言えばよかったのよ』
「何を?」
『「紳士協定は分かった」』
「うん」
『「でも私は渚と結婚したい」』
「…………」
『「卒業まで待てと言われても、この気持ちは変わらない」』
渚の顔が一気に赤くなった。
『「渚、私と――」』
「きゃああああああ!!」
ベッドの上で転がった。
「言わないで! そんな具体的に言わないで!」
『なんで私がプロポーズの台詞考えてるのよ』
「凛ちゃんが勝手に始めたんでしょう!」
『私だったら、それくらい言わせるわ』
「無茶です!」
『男ならたまにはそれくらい強引に――』
そこで。
渚が小さく言った。
「でもね」
『ん?』
「先生が言わなかったんじゃないの」
『……どういうこと?』
「私が……止めたの」
5.それなら、和先生は正解
渚は、食事処で交わした言葉を凛に話した。
自分がどれほど嬉しかったか。
今すぐ「はい」と答えたいくらいだったこと。
でも。
ユリシア。
雫。
茉里絵。
三人との約束がある。
だから。
――今日、言おうとしてくださった言葉。
――卒業まで……預かっておいていただけますか?
自分からそう言ったこと。
そして和先生が。
何も押しつけず。
静かに。
「分かりました」
と答えてくれたこと。
電話の向こうが静かになった。
「…………凛ちゃん?」
『なるほどね』
「うん」
『じゃあ判定変更』
「え?」
『和先生、九十五点』
「上がった!?」
『上がるわよ』
凛は即答した。
『渚がそう決めたなら、それを尊重したのは正解』
「…………」
『あそこで「いや、俺は今すぐ結婚したい!」なんて強引に押し切ったら、それはもう渚の気持ちを無視してるだけじゃない』
「うん……」
『私はね』
凛の声が少し優しくなる。
『和先生には、もっとグイグイ行けってずっと思ってる』
「知ってます」
『渚なんて放っておいたら、死ぬまで「先生のご迷惑じゃ……」とか言い続けるから』
「そこまで言わないよ!」
『似たようなものよ』
「むぅ……」
『でも』
凛は続けた。
『思い切ることと、相手の気持ちを無視することは違うから』
渚は黙って聞いた。
『今回、和先生はちゃんと決めた』
「……うん」
『渚と結婚したいって』
「うん……」
『そしてそれを、本人だけじゃなく、他の三人の前でも言った』
「…………うん」
『最後は渚が「待ってください」って言ったから待った』
「うん」
『十分じゃない』
その言葉が。
じんわりと胸に染み込んだ。
『残り五点は?』
渚が思わず聞く。
『卒業の日まで保留』
「厳しい!」
『当然』
「ちゃんと約束守るんだからいいじゃない!」
『じゃあ百点は卒業式まで取っておく』
「……ふふっ」
なんだか。
すごく凛らしい。
6.ハンカチ、何枚使った?
『ところで』
凛が急に話題を変えた。
『昨日、私なんて言った?』
「え?」
『ハンカチ』
「あ」
『二枚持っていけって言ったわよね』
「はい」
『何枚持ってった?』
「…………三枚」
『増やしたんかい』
「念のためです!」
『で? 何枚使った?』
「…………」
『渚?』
「二枚半」
爆笑された。
「もうっ!」
『あはははは! だから言ったでしょ!』
「でもプロポーズそのものはされてないんですよ!」
『未遂で二枚半!?』
「仕方ないじゃないですかぁ!」
『じゃあ本番は五枚いるわね』
「そんなに泣きません!」
『十枚?』
「増やさないで!」
二人で笑った。
昨夜も。
こうして笑った。
不安でいっぱいだった自分を。
凛が何度も笑わせてくれた。
そして今日。
昨日とはまったく違う気持ちで。
また同じ親友と笑っている。
しばらくして。
渚が小さく呼びかけた。
「ねえ、凛ちゃん」
『なに?』
「昨日……一番最初に報告するって言ったでしょう?」
『うん』
「約束、守れた」
電話の向こうが少し静かになる。
『そうね』
「結果は……ちょっと予想と違ったけど」
『ちょっとどころじゃないわよ』
「ふふっ……」
渚は左手を胸に当てた。
薬指には、まだ何もない。
でも。
昨日までとは違う。
先生が。
自分との結婚を考えてくれている。
それをもう、知っている。
「私ね」
『うん』
「今日、婚約者にはなれなかったけど……」
少し考えて。
微笑んだ。
「すごく幸せな誕生日だったよ」
『……そっか』
「うん」
『じゃあ』
凛が言った。
『三十歳、おめでとう。渚』
「……ありがとう」
『それから』
「うん?」
『和先生にも言っといて』
「何を?」
凛は楽しそうに笑った。
『次は未遂じゃ済ませるなって』
「凛ちゃん!」
電話の向こうから、豪快な笑い声が聞こえた。
渚も。
とうとう堪えきれずに笑った。
三十歳、最初の夜。
左手の薬指は。
まだ空いている。
でも、その場所を見ても。
もう不安にはならなかった。
いつか。
卒業の日。
先生が改めて答えを出してくれる、その時まで。
私は私らしく。
先生の隣を歩いていこう。
そして――。
その時こそ。
凛ちゃんに。
今度はちゃんと。
「プロポーズされました」
って。
報告しよう。

