放課後の教室は、不自然なほど静まり返っていた。 空調の低い運転音と、誰かがごくりと喉を鳴らす音だけが響く。
教壇には、なごみ先生と、補佐役の渚先生が立っている。その手には、商工会議所のロゴが入った、結果が外から見えないように二つ折りにホチキス止めされた「成績票」が数枚握られている。
「…これから、日商簿記検定の結果を渡す」
なごみ先生の声は、いつもより少しだけ低い。
「一人ずつ名前を呼ぶから、前に来てくれ。合否は声に出さない。ここに書いてある結果を、自分で確認するように。私からは、簡単なフィードバックだけ、静かに伝えさせてもらう」
その言葉に、教室の空気が、さらにピンと張り詰める。 柚羽は、今にも泣き出しそうな顔で、ぎゅっと目を閉じている。
「まず、3級からだ。…橘」
「…はい!」
茉里絵が、静かに立ち上がって前へ進む。 なごみ先生は、無言で、ホチキス止めされた成績票を手渡した。 茉里絵は、それを受け取ると、震える指でそっと開く。
その表情が、数秒後、ふわりと安堵に緩んだ。
「まあ…!」
「(おめでとう。92点、見事な高得点だ)」
なごみ先生が、周りには聞こえない、本当に小さな声でそう言うと、茉里絵は「ありがとうございます!」と、満面の笑みで席に戻った。 ユリシアが小さく「まりちゃん、すごい!」と声をかける。
「次、如月」
「……は、はいぃっ!」
柚羽が、震える足で教壇に向かう。 なごみ先生は、とても優しい、困ったような顔で、成績票を手渡した。 柚羽は、おそるおそる、それ開く。
次の瞬間、柚羽の顔が、くしゃりと歪んだ。
「(柚羽…)」
「……」
「(今回は、残念だった。…でもな、第1問の仕訳は、半分以上合ってたぞ)」
なごみ先生が、必死に声をかける。 その言葉が、ダムを決壊させた。 柚羽は、成績票を握りしめたまま、その場にうずくまり、「う、うわぁぁぁん!」と声を上げて泣き出してしまった。
「次、ファランドール」
「は、はいっ!」
ユリシアは、泣いている柚羽を心配そうに見ながら、前へ出た。 成績票を受け取り、勢いよく開く!
【合格】
「えっ…!ほんと!?やったーー!!」
ユリシアが、思わず大声で叫ぶと、なごみ先生は「こら、柚羽が泣いてるんだから、静かに喜べ」と、苦笑しながらも、周りに聞こえないようにささやいた。
「(おめでとう、74点。ギリギリだったな)」 「(えへへ、やったよ、おにいたん!)」
なごみ先生は、ユリシアの頭を優しく撫でてくれた。 ユリシアと茉里絵は、すぐに泣きじゃくる柚羽のもとに駆け寄り、「大丈夫だよ、柚羽ちゃん!」「次、また一緒に頑張りましょう?」と背中をさすっている。
なごみ先生は、その間に、他の3級受験者にも静かに成績票を配り終えた。 教室のあちこちで、小さなガッツポーズや、安堵のため息が漏れている。
ここで、渚先生が、集計結果を見て、明るい声で口を開いた。
「皆さん、ひとまずお疲れ様でした!3級は、今回26名が受験されましたが…なんと、25名の方が合格です!素晴らしい結果ですよ!」
「「「おおー!」」」
その事実に、合格した生徒たちから、どよめきと拍手が起こる。 だが、その歓声が、うずくまって泣いている柚羽の孤独を、より一層際立たせることになった。
「「「えっ…」」」
空気を読んで、拍手と歓声がすぐに止まる。 誰もが、泣いている柚羽と、その隣に立つなごみ先生に視線を向けた。
なごみ先生は、渚先生の言葉を引き継がず、ただ、柚羽から目を逸らさなかった。
「…25名が合格できたのは、皆がよく頑張ったからだ。だがな、それは、私の指導が、たった一人、如月にだけ届かなかったという証明でもある。…すまない、如月。私の力不足だ」
「そ、そんなこと…!先生のせいじゃ…!」 柚羽が顔を上げて何か言おうとするが、涙で言葉にならない。
(…おにいたん、柚羽ちゃんのこと…すごく気にしてる…) ユリシアは、なごみ先生の悔しそうな横顔を、じっと見つめていた。
渚先生は、なごみ先生の隣で、少し複雑そうな、それでいて愛おしそうな表情で、彼を見つめていた。
「…続けるぞ。2級だ」
教室の後方に座っていた、2級受験者5人の空気が、再び凍りつく。 雫、2年生の綾香ともう一人、そして3年生が二人。
ゴクリ、と雫の喉が鳴る。
「3年、高坂」 「はい!」 (成績票を受け取り、開く。…表情が輝く) 「(おめでとう。94点だ。さすがだな)」 「ありがとうございます!」
「次、2年、水野」 「…はい」 (成績票を受け取り、開く。…悔しそうに唇を噛む) 「(残念だったが、工業簿記はよく出来ていた。次だ)」 「…っす」
「次、3年、佐伯」 「…はい」 (成績票を受け取り、開く。…静かに目をつむる) 「(すまない、佐伯。60点台だった。惜しい)」 「…いえ」
残るは、雫と、いつもトップクラスの成績を誇る綾香の二人だけ。
「次、2年、姫宮」 「はい」
プライドの高そうな優等生、姫宮綾香が、静かに立ち上がる。 成績票を受け取ると、自信満々にそれを開き…。
「…96点。想定通りの結果です」
綾香は、わざとクラス全員に聞こえるように、冷静な声で、自分の点数を声高に宣言した。 そして、ちらりと雫の方を見て、冷たく微笑む。
(……っ!)
心臓が、うるさい。 最後の一人。 受かってるか、落ちてるか。
「…最後、立野」
「……はい」
雫が、ゆっくりと立ち上がる。 手足が、鉛のように重い。
なごみ先生は、何も言わない。 ただ、じっと雫の目を見て、そっと成績票を差し出した。
雫は、それを受け取ると、震える指でホチキスを外し、紙を開いた。
【合格】
点数:72点
「…………あ…」
声にならない息が、漏れた。 合格? うそ、受かってる…?
72点。合格ラインは70点。 本当に、ギリギリ。
あの連結精算表で、ボロボロだと思ったのに。 どこかで、必死に書いた部分点が拾われていたんだ。
「…せん、せ…」
「(ギリギリだったが、よく粘ったな。合格は合格だ。おめでとう、雫)」
なごみ先生の、小さな、だが心のこもった祝福の言葉に、全身の力が抜けていく。 よかった…! 先生を、がっかりさせずに、済んだ…!
その瞬間だった。 席に戻ろうとする雫の隣で、トップ合格した綾香が、静かに話しかけてきた。
「立野さん。合格おめでとうございます」
「…どうも」
「…点数、聞いても? …72点。合格ラインぎりぎりですね。アイドル活動との両立は、やはり非効率だったのでは?」
その一言に、安堵で緩みかけた雫の表情が、一瞬で凍りついた。
「…うるさい」
「いえ、事実です。同じ2年生の合格者として、学院の平均点が下がるのは問題ですから。非合理的な努力は、全体の足を引っ張ります」
「なっ…!」
カッと頭に血が上り、雫が何か言い返そうとした、その時。
「そこまでだ、姫宮」
なごみ先生の、静かだが、有無を言わせぬ声が響いた。
「…っ、なごみ先生」
「姫宮、君がトップ合格したのは見事だ。だがな、立野も、多忙なアイドル活動と勉強を両立させるという、大変な努力をしてこの合格を勝ち取ったんだ。」
なごみ先生が、雫の前に立つ。
「72点も96点も、同じ『合格』だ。点数で人の努力を侮辱するような真似は、二度としてはいけないよ」
その、静かだが、論理ではなく「心」で諭すような言葉に、綾香は、いつも冷静な顔を、驚きに目を見開いて固まらせた。
「……っ!」
いつも、彼女は「結果」と「論理」ですべてを判断してきた。 こんな風に、他人の「非合理的な努力」を真剣に守り、自分の「正論」をまっすぐに否定されたのは、初めてだった。
綾香は、なごみ先生からスッと目を逸らすと、何も言わずに、冷たい表情のまま、
「…失礼します」
とだけ呟き、静かに教室を出て行ってしまった。
教室には、3級の3人と、雫、そしてなごみ先生と渚先生だけが残った。 柚羽は、まだ「たった一人の不合格」というショックから、小さくしゃくりあげている。
なごみ先生は、はぁ、と息をつくと、雫に向き直った。
「…大丈夫か、雫。…その、嫌な思いをさせたな」
「…いえ」
「でも、本当に、おめでとう。あの状況で受かったのは、奇跡じゃなく、お前の執念だ」
なごみ先生が、優しく、ポン、と雫の頭に手を置いた。
「…っ」
先生の優しさが、やっぱり雫の心に染み渡る。 合格した安堵と、点数への悔しさが、全部ぐちゃぐちゃになって、雫の目から涙が溢れた。
「…ぜんぜん、っ…ギリギリじゃ、ダメなのに…っ!」
「ダメじゃない。かっこよかったよ」
なごみ先生は、悔し涙を流す雫の肩を、そっと支えていた。
その光景を、ユリシアは、呆然と見つめていた。
(…おにいたん…。)
合格した私(74点)は、頭をポンって撫でてくれただけだった。 今、合格した雫ちゃん(72点)のことは、肩を抱いて、慰めてる…。
(…なんで…?)
私と雫ちゃん、二人とも合格したのに。 二人とも「おめでとう」って言ってもらったのに…。
(なんで、雫ちゃんが泣いてると、おにいたんの優しさが、あんなに特別になるの…?)
私だって、ギリギリで、すごく嬉しかったのに… 雫ちゃんは、合格しても泣いて、おにいたんの特別な優しさをもらってる。
(…ずるい)
それに、さっきの柚羽ちゃんを見る顔…。 「私の力不足だ」なんて言って…。 きっとおにいたん、これから柚羽ちゃんに、二人きりで勉強を教えたりするんだ。
(…雫ちゃんも、柚羽ちゃんも、ずるい)
まるで、おにいたんの「先生」としての優しさは、全部あの二人に 向かってるみたいだ。 私より、ずっとずっと特別な「何か」が、二人にはあるみたいで…。
ユリシアは、自分の合格の喜びが、急速に冷めていくのを感じていた。
「…さて、もう暗くなってきた。みんな、今日は解散だ。柚羽、…気をつけて帰れよ」
「…はい…」
なごみ先生に促され、ユリシアたちも、まだ泣き続けている柚羽を支えながら、教室を後にしようとする。
【同日・商業科教室前の廊下】
ユリシア、茉里絵、雫、そしてなごみ先生と渚先生が、柚羽を慰めながら廊下を歩いていると、 廊下の隅の物陰から、さっき教室を飛び出していったはずの綾香が、駆け寄ってきた。
「…ま、待ってください…!」
「ひ、姫宮!?どうした、まだ残って…」
なごみ先生が驚いて振り向いた、その瞬間。 綾香は、さっきまでの冷静な態度が嘘のように、その大きな瞳を真っ赤に潤ませ、拳を固く握りしめていた。
「…っ、…う…」
「「「ええええええ!?」」」
ユリシアと雫が、思わず声を揃えて叫んだ。 あの、クールな姫宮綾香が、泣いている…!?
「…さっきの…先生の言葉…納得できません」
綾香は、涙声で、なごみ先生をまっすぐに見つめた。
「えっ!?あ、いや、ひ、姫宮!?」 予想外の言葉に、なごみ先生がうろたえる。
「えっ!?あ、いや、な、泣くことはないだろ!?なっ!?💦」
「泣いてません…!」 綾香は、そう叫ぶと、溢れる涙も拭わずに、なごみ先生に駆け寄り、その両手を、ぎゅっと掴んだ。
「「「はああああああ!?」」」
再び、ユリシアと雫の絶叫が重なる。
「ひ、姫宮!?ち、近いし、手を…!みんな見てるから…!」
「なぜ、非効率な努力を、論理的な結果よりも優先するんですか…!?私だって…!」
綾香は、何かを言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「…先生にだけは…!私の『正しさ』を、否定してほしくなかった…!」
「私だって…!先生に、褒めてほしくて…!誰よりも頑張ってきたのに…っ!」
(ええええええええ!?!?)
綾香の、予想外の「告白」とも取れる叫びに、その場の全員(なごみ先生含む)が、完全に固まった。
「ひ、ひめみや…!?お、お前、何を…!?」 なごみ先生が、顔を真っ赤にしてさらに動揺する。
(なによなによなによ、あの女ーーーッ!?!?)
ユリシアは、さっきまでの柚羽や雫への嫉妬が全部吹っ飛ぶほどの激しい怒りで、頭が沸騰しそうになる。 (おにいたんの手に、触るなーっ!ユリシアの!婚約者なのにーっ!!)
(はぁ!?何アイツ…!「褒めてほしくて」!?さっきまでのクールな態度はどこいったのよ!)
雫も、ライバルの豹変ぶりに、怒りと混乱で叫びだしたいのを必死にこらえる。
(っていうか、泣けば許されると思ってんの!?ふざけんじゃないわよ…!)
(…まあ…!あんな理知的でクールな子が、なごみ先生の前で、あんな風に感情を…)
渚は、一人、ゴゴゴゴゴ…と効果音が鳴るほどの、静かな、しかし最も冷たい怒りの炎を燃やしていた。
(…私という存在(ライバル)が、見えていない…?いい度胸ね…!)
合格の喜びも、友達への心配も、今やユリシアの頭から吹き飛んでいた。
(雫ちゃんも、柚羽ちゃんも、渚先生も…!そして、あの新しい人まで…!)
(おにいたんは、ユリシアの婚約者なのにっ!!)
ユリシアは、迫り来る新たな波乱の予感に、ぎゅっと拳を握りしめた。

