なんで私じゃないのよ!――夏制服、もう一人のモデル

第3学年

五月下旬。

新しい夏用制服が学院の公式サイトで公開されてから、まだ数日しか経っていない午後のことでした。

和先生は職員室の机に、何枚かの制服資料を広げていました。

正面。
斜め前。
全身。
そして、公式モデルである立野雫が新しい夏制服を着た写真。

「……うーん」

和先生は眼鏡を押し上げながら、もう一度写真を見比べます。

完成した制服として見るなら、何も問題はありません。

白いブラウス。
紺色のスカート。
肩を覆うネイビーのケープレット。

学院の夏制服として、生徒や保護者に見てもらうための資料としては十分です。

けれど――。

「これ、実際に同じものを作ろうとすると分からないな……」

公開してから改めて資料として眺めてみて、あることに気づきました。

ケープレットの下。
ブラウスの背中がどうなっているのか。
上腕部の袖が、どんな構造になっているのか。
そして、背面のウエスト部分。

正式な着用状態では、肝心なところが隠れてしまっています。

もちろん、それは制服として正しい姿です。

だからこそ、通常のカタログ写真では見せる必要がありません。

けれど将来、同じ制服を仕立て直したり、デザインを正確に再現したりすることを考えれば、別途資料が必要でした。

そのとき、職員室の前を通りかかった生徒に、和先生は声をかけました。

「姫宮。ちょっといいかな」

「……私ですか?」

姫宮綾香が足を止めます。

少し怪訝そうな表情を浮かべながらも、そのまま職員室へ入ってきました。

「この夏制服なんだけどね」

和先生は写真を指差しました。

「製作用の資料として見ると、背中と袖の構造が分からないんだ」

綾香は数秒、写真を眺めました。

「……確かに」

即答でした。

「ケープレットで肩甲骨付近まで隠れています。袖も上部の構造を確認できません。これを基に同一の制服を再現しようとすれば、推測が入りますね」

「そうなんだよ」

やっぱり話が早い。

「だから、ケープレットだけ外した状態の補助資料を一枚撮っておきたいんだ」

そこで和先生は続けました。

「姫宮、モデルをお願いできないかな」

綾香が瞬きをしました。

「……私が?」

「うん」

「立野さんではなく?」

もっともな疑問です。

「雫は正式な制服の公式モデルだからね」

和先生は雫の写真を指しました。

「学院が生徒や保護者に見せる“正しい着用例”では、必ずケープレットを着けている。そこで雫がケープを外した写真まで同じ資料に混ぜてしまうと、『ケープなしでも正式な着方なのか』って誤解される可能性があるだろう?」

「……なるほど」

綾香の表情が少し変わります。
納得したときの顔です。

「つまり立野さんは完成状態を示す公式モデル。私は構造確認用の補助モデル」

「そういうこと」

「目的が異なる以上、モデルも分けた方が資料として明確になる」

「私はその方がいいと思ってね」

綾香はもう一度写真を見ました。

「合理的ですね」

それだけ言って、小さく頷きます。

いつもの綾香でした。

ところが。

「それに、姫宮ならこういう資料を頼んでも、何のために撮るのかを理解して動いてくれそうだったから」

その一言に。

綾香の動きが、ほんの一瞬だけ止まりました。

「…………」

「どうした?」

「いえ」

顔を逸らします。

「別に」

そして髪を指先で触りながら、

「そういう理由でしたら、構いません」

と答えました。

声はいつも通りでした。

けれど。

耳が、ほんの少し赤くなっていました。


撮影は、その日の放課後に行われました。

ケープレットだけを外し、背中を向ける。
ポニーテールは片側へ流し、ブラウスの背面が隠れないようにする。
少し振り返り、背中だけでなく袖の形まで確認できる角度へ。

「姫宮、もう少し右肩をこちらへ向けてもらえるかな」

「この程度ですか?」

「うん。そのくらい」

シャッター音。

綾香は一度説明を聞いただけで、こちらの意図を読みながら姿勢を微調整していきます。

「次は、左腕をほんの少し前へ」

「袖の後ろ側が見えるように、ですね」

「そうそう」

またシャッター音。

(立野さんではなく私が選ばれた理由は明確)

綾香は頭の中で整理していました。

(公式モデルと補助資料モデルを分けることで、正式な着用方法との混同を防止できる)

シャッター音。

(髪を片側へ寄せれば、背面の視認性も確保できる)

シャッター音。

(目的と手段に矛盾はない)

つまり。

何も特別なことではない。
必要だから選ばれただけ。
合理的な判断。

それだけのこと。

撮影が終わると、和先生は何枚かの写真を確認しました。

「……うん。これなら大丈夫そうだ」

「そうですか」

「ありがとう、姫宮。本当に助かったよ」

「いえ。必要な資料なのでしたら」

そこで和先生は、何気ない調子で続けました。

「やっぱり姫宮にお願いして正解だったな」

「…………え?」

珍しく、綾香が聞き返しました。

「撮影の意図を一度説明しただけで、どこを見せたいのかちゃんと理解してくれただろう?」

和先生は写真を見ながら話しています。

綾香の顔は見ていません。

だから、自分の言葉がどれくらい相手に効いているのかも、おそらく分かっていません。

「私が細かく指示しなくても、自分で髪を避けたり、袖が見える角度を考えたりしてくれたし」

「…………」

「姫宮って、こういうとき本当に頼りになるね」

綾香の指先が止まりました。

「これなら、将来この制服を作る人が見ても分かると思う。単に写真を撮るだけじゃなくて、“何のための資料なのか”まで分かって動いてくれたからだよ」

「……そう、ですか」

「うん。ありがとう」

和先生は、ごく普通に笑いました。

それだけ。

本当に、それだけでした。

「…………」

綾香は視線を逸らします。

胸の奥が、妙に落ち着きません。

(評価された)

まず浮かんだのは、いつもの考え方でした。

(私の行動が目的に対して適切だったから、その成果を評価された)

それだけ。

教師が生徒の働きを評価した。

論理的には、それ以上でもそれ以下でもない。

なのに。

“本当に頼りになるね”

その言葉だけが、なぜか頭の中から消えません。

(……何これ)

モデルに選ばれたから?

違う。

写真を褒められたから?

それも違う。

もっと正確に言えば――。

自分を見込んで任せてもらえたこと。

そして。

その期待に応えられたこと。

(……嬉しい、ってこと?)

そこまで考えて。

綾香は自分で自分の思考を打ち切りました。

「……ばかみたい」

誰にも聞こえないほど小さな声。

けれど、その口元には。

本人も気づかないほど小さな笑みが浮かんでいました。


翌日。

「…………は?」

昼休み。

スマートフォンを見ていた雫の手が止まりました。

夏用制服の紹介ページ。

そこに追加された、新しい一枚の画像。

ケープレットを外し、背中を向けながら振り返っているピンク髪の少女。

モデル――姫宮綾香。

「…………」

もう一度見る。

間違いない。

綾香です。

「ちょっと待って」

隣にいた茉里絵が、嫌な予感を察したように顔を上げました。

「どうされましたの、雫さん?」

「なんで」

「はい?」

「なんで綾香が制服モデルやってんのよ!!」

教室中に響きました。

「し、雫さん!?」

「夏服のモデルは私でしょ!?」

その数分後。

廊下で当の本人を発見した雫は、早足で追いつきました。

「ちょっと、綾香!」

「何ですか、立野さん」

「何ですかじゃないわよ!」

雫がスマートフォンを突きつけます。

「これ!」

画面を見た綾香は、特に驚くこともなく答えました。

「ああ。それですか」

「ああ、それですか、じゃないわよ! なんであんたが夏服のモデルになってんのよ!」

「モデルというより補助資料ですけど」

「同じでしょ!」

「違います」

「違わない!」

「違います」

「むきーーーっ!!」

そこへ追いついた茉里絵が、慌てて二人の間に入ります。

「お、お二人とも落ち着いてくださいませ!」

「だって茉里絵! 私が正式モデルなのよ!?」

「ええ。ですからこそ、ですわ」

「……は?」

茉里絵は事情を説明しました。

正式な制服では、ケープレットを着用する。
雫は、その正式な姿を示す公式モデル。
一方、綾香の写真は、通常は隠れてしまうブラウスの背中や袖を確認するためだけの補助資料。

「ですから、雫さんの役目を綾香さんが奪ったわけではありませんの」

「…………」

雫の眉間のしわが、少しだけ緩みました。

「むしろ雫さんは、“正しい夏制服の顔”だからこそ、ケープレットを外した状態では撮影しなかったのですわ」

「……そ、そういうこと?」

「はい」

「なんだ……」

明らかに安心した顔。

それを見ていた綾香が言います。

「そんなに気にしていたんですか」

「気にしてないわよ!」

「ものすごく怒っていましたけど」

「怒ってない!」

「廊下の端まで聞こえていましたけど」

「うるさいわね!!」

そこで雫は、ふと何かに気づきました。

「……ところで」

嫌な顔をして綾香を見ます。

「この撮影、誰に頼まれたの?」

「和先生ですけど」

「…………」

数秒の沈黙。

「はぁ!?」

さっきより大きな声でした。

「な、何ですか」

「和先生から直々に!?」

「そうですけど」

「なんでよ!!」

「知りませんよ!」

「なんでそこまであんたなのよ!」

「だから資料作成上の都合だと、さっきから説明しているでしょう!」

「それとこれとは別なの!」

「何が別なんですか!」

茉里絵が困ったように頬へ手を当てました。

「まあまあ……」

そして、二人を見比べて微笑みます。

「つまり――」

一呼吸。

「表の雫さん、裏の綾香さん、ということですわね」

「その言い方やめて!!」

「私まで巻き込まないでください!」

雫と綾香の声が、綺麗に重なりました。

茉里絵は口元を押さえて笑います。

「まあ。息ぴったりですこと」

「どこがよ!」

「どこがですか!」

「……」

「……」

二人とも黙ります。

そして。

「真似しないでよ!」

「そちらでしょう!」

再び廊下に声が響きました。


少しして。

雫はもう一度、スマートフォンの画像を見ました。

綾香の背中。

ケープレットがないことで、ブラウスの形や袖の構造、腰まわりまでよく分かります。

「……まあ」

雫がぼそっと呟きました。

「資料としては、分かりやすいんじゃない」

少し離れたところにいた綾香が振り返ります。

「何ですか?」

「な、何でもない!」

「今、褒めました?」

「褒めてない!」

「『分かりやすい』って」

「聞こえてたなら聞くな!!」

雫の顔が赤くなります。

ところが。

綾香も、それ以上は言い返しませんでした。

ほんの少しだけ、視線を逸らします。

「……別に」

「何よ」

「ちゃんと役に立ったなら、それでいいです」

「…………」

雫が、綾香の横顔を見ます。

いつもの綾香なら。

もっと冷たく。

もっと理屈っぽく。

「資料として目的を達成しているなら問題ありません」

そんな言い方をしそうなものです。

でも。

今の綾香は、少しだけ違いました。

雫の目が細くなります。

「……あんた」

「何ですか」

「もしかして」

雫の口元が、ゆっくり上がりました。

「和先生に頼られたの、嬉しかったんじゃない?」

綾香の肩が。

ぴくっ。

と動きました。

「…………」

「え」

雫の目が輝きます。

「ちょっと待って。図星?」

「違います」

「今、間があった!」

「ありません」

「耳赤いけど!?」

「暑いだけです」

「廊下、冷房効いてるけど!?」

「立野さん!」

珍しく綾香が声を荒らげ、くるりと背を向けました。

「わぁー!」

雫が嬉しそうに追いかけます。

「綾香が照れてる!」

「照れてません!」

「絶対照れてる!」

「いい加減にしてください、立野さん!」

いつもとは少しだけ立場の逆転した二人を、茉里絵は少し離れたところから眺めていました。

「ふふ……」

綾香は背を向けたまま、赤くなった耳を隠すように、そっと髪を直していました。

夏制服紹介ページには、こうして一枚の写真が追加されていました。

夏用制服・製作用補助リファレンス

綾香の製作用補助リファレンス

※ 通常の制服では、肩のネイビーケープレットを着用します。
本資料では、袖および背面構造を確認しやすくするため、ケープレットを外した状態で撮影しています。
モデル:姫宮綾香

そして。

なぜかそのページを、誰より何度も開いていたのは――。

「……別に確認してるだけだからね」

そう言い張る、立野雫なのでした。

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