「……茉里絵?」
後ろから聞こえた声に、茉里絵は振り返った。
「はい?」
そこには、タオルを肩に掛けた雫がいた。
海で散々遊んだあと。
六人は昼食をとるため、砂浜から宿へ戻るところだった。
茉里絵はいつものように微笑んでいる。
けれど、その両腕には大きなバスタオルが抱えられていた。
肩に掛けるのではなく。
身体の前へ寄せるように、ぎゅっと。
雫はその姿を数秒見つめた。
「……何でもない」
それだけ言うと、茉里絵の隣へ並ぶ。
何も聞かない。
何も指摘しない。
ただ、それまでより少しだけ歩調を落として。
茉里絵と同じ速さで歩いた。
「…………」
茉里絵は横目で雫を見る。
やがて、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます、雫さん」
「何が?」
「いえ。何でもありませんわ」
今度は雫が茉里絵を見る番だった。
けれど。
「……そ」
それ以上は何も言わなかった。
宿に戻ると、昼食には海辺らしく魚介の料理が並んでいた。
「わぁぁ……!」
ユリシアが目を輝かせる。
「お刺身いっぱい!」
「ユリシア先輩、こっちのお魚も美味しそうですよ!」
柚羽もすっかり上機嫌だった。
「お昼から豪華ねぇ」
綾香が箸を取り、
「学院の補助制度、侮れないわね」
雫も満足そうに頷く。
「皆さん」
渚先生だけはまだ教師の顔を崩さない。
「午後も海へ出るのですから、食べすぎてすぐ泳ぐようなことはしないでくださいね」
「はーい!」
五人の返事が重なった。
茉里絵も、その輪の中で笑っていた。
楽しい。
本当に楽しい。
こんなふうに大勢で食卓を囲んで。
くだらないことで笑って。
誰が最後の一切れを食べるかでもめて。
「それ、私が狙ってたの!」
「雫ちゃん、早い者勝ちだよぉ♡」
「ユリシアー!💢」
そんな二人を見ながら、みんなで笑う。
茉里絵の家の食卓では、まず見ることのない光景だった。
だから。
今日という日を、心から楽しみたい。
そう思っているのに。
ふとした瞬間。
さっきまで身体の前に抱えていたタオルを思い出してしまう。
昼食後。
休憩を兼ねて、六人は宿の前にある海沿いの遊歩道を散歩することになった。
まだ真昼の陽射しは強い。
けれど、海から吹く風は少しだけ心地よかった。
「まりちゃん!」
先を歩いていたユリシアが振り返る。
「写真撮ろうよ!」
「写真、ですの?」
「うん! せっかく海に来たんだもん!」
「いいですね!」
柚羽も賛成する。
綾香がスマートフォンを取り出した。
「じゃあ私が撮るわよ。ユリシア、もうちょっとそっち」
「はーい!」
茉里絵は、無意識に一歩後ろへ下がった。
すると。
「茉里絵」
雫の声がした。
「そんな後ろにいたら見切れるじゃない」
「え?」
「ほら」
雫が何気なく茉里絵の腕を引く。
「ここ」
連れてこられたのは、みんなの真ん中だった。
「わ、わたくしが中央ですの?」
「別にいいでしょ?」
「でも……」
「まりちゃん、早く早く!」
ユリシアが隣から笑う。
柚羽も反対側へやってきた。
「茉里絵先輩、こっち向いてください♪」
「……はい」
綾香がスマートフォンを構える。
「撮るわよー」
茉里絵は、少しだけ身構えた。
――きちんとしなければ。
姿勢を整えて。
角度を考えて。
なるべく――。
「茉里絵」
また、雫だった。
「はい?」
「今、変なこと考えてるでしょ」
「……!」
「普通に笑えばいいのよ」
「普通に……?」
「そう」
雫は肩をすくめた。
「今日くらい」
その瞬間。
「まりちゃーん♡」
反対側からユリシアが身体を寄せてきた。
「きゃっ!?」
思わず茉里絵が声を上げる。
ぱしゃっ。
「あ」
綾香がシャッターを切った。
「ちょっとユリちゃん!」
「あはははっ!」
「もう……!」
茉里絵もつられて笑った。
ぱしゃっ。
もう一枚。
今度は。
誰にも言われなくても、自然に笑えていた。
散歩を終え、午後の海へ戻る頃。
茉里絵はまた、タオルを手にしていた。
けれど、今度は身体を隠すようには持っていなかった。
ただ普通に、肩へ掛けている。
それを見た雫は何も言わない。
しかし茉里絵の方から声をかけた。
「……雫さん」
「ん?」
「少し、お話ししてもよろしいかしら」
「いいけど」
二人は、みんなから少し離れた日陰へ腰を下ろした。
海ではユリシアと柚羽が何かをしている。
渚先生が二人へ注意を飛ばしている声も聞こえる。
茉里絵はしばらく海を眺めていた。
そして。
「わたくし……昔から、自分の体型が――特に、この胸のことが、好きではありませんでしたの」
雫は何も挟まなかった。
「……もっとも、雫さんにはとっくにお見通しでしたわね。前に、その……『牛乳女』などと」
「覚えてるわよ、それくらい」
「忘れていてくださっても、よろしかったのに」
「別に。忘れる理由もないでしょ」
そっけない答えに、茉里絵は小さく笑った。
「服を選ぶ時も。人前へ出る時も。何をしていても、まずそこを気にしてしまって」
普段の服装なら。
目立たないよう工夫することもできる。
けれど学院指定の水着では、それにも限界がある。
今回の旅行が決まった時から。
楽しみと同じくらい、不安もあった。
「せっかく皆さんと海へ来たのに……こんなことばかり考えている自分が、少し嫌になりますわ」
「…………」
「おかしいですわよね?」
雫が眉をひそめた。
「何がおかしいの?」
「え?」
「嫌なものは嫌なんでしょ」
あまりにもあっさりしていた。
「だったら仕方ないじゃない」
「でも……」
「無理に好きになる必要までないと思うけど」
茉里絵が雫を見る。
雫は海を向いたままだった。
「自信持てとか、気にするなとか言われても、そんな簡単じゃないでしょ」
「……はい」
「私だって似たようなものよ」
「雫さんが?」
「あるわよ。いくらでも」
仕事では自信満々に見せる。
カメラの前では完璧に振る舞う。
でも。
それと、自分に本当に自信があることは別だ。
さっき柚羽に見せられた、あの写真。
計算もしていない。
整ってもいない。
それでも笑っている自分。
「だからさ」
雫は茉里絵を見る。
「今日一日で全部好きになろうとか、そんなこと考えなくていいんじゃない?」
「…………」
「嫌ならタオル持ってればいいし。隠したければ隠せばいい。別に誰も怒らないわよ」
茉里絵は目を伏せた。
「でも」
雫が続ける。
「さっき私が気になったのは、茉里絵の身体じゃないからね」
「え?」
「あんたがいつもの顔して笑ってるくせに、全然楽しそうじゃなかったから」
茉里絵の瞳が、少し大きくなる。
「それが気になっただけ」
「…………」
「だから隣歩いたの」
その言い方があまりにも雫らしくて。
茉里絵は、思わず笑ってしまった。
「ふふっ……」
「何よ」
「いいえ」
茉里絵は目元をそっと押さえた。
「雫さんは、本当にお優しい方ですわね」
「やめてよ。気持ち悪い」
「まあ!」
「ほら、そういう顔してる方が茉里絵らしいじゃない」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
「まりちゃーん!」
遠くからユリシアの声がする。
「来てー!」
「どうなさいましたの?」
茉里絵と雫が近づいていくと。
波打ち際で柚羽が困った顔をしていた。
その前には、小さな女の子が一人。
泣いている。
「どうしたの?」
雫が尋ねる。
「迷子みたいなんです」
柚羽が答えた。
「お母さんが見つからないって……」
「まあ……」
茉里絵はすぐに女の子の前へしゃがんだ。
「こんにちは」
女の子が涙の浮かんだ目で茉里絵を見る。
「怖かったですわね」
声を落として。
急かさず。
いつもの上品な微笑みを向ける。
「でも大丈夫ですわ。先生もおりますし、みんなでお母さまを探しましょう」
女の子は何も言わない。
茉里絵はさらに優しく尋ねた。
「お名前を教えていただけますか?」
しばらくして。
小さな声が返ってきた。
茉里絵は一つずつ話を聞く。
名前。
母親の服装。
どこで最後に会ったか。
そこからは渚先生が動いた。
海の家へ連絡し、場内放送を頼む。
雫と綾香は周囲を確認。
ユリシアと柚羽は女の子が不安にならないよう、一緒に待った。
そして茉里絵は。
ずっと女の子の隣にいた。
「いた!」
十分ほどして。
こちらへ駆けてくる女性の姿が見えた。
「お母さん!」
女の子が走り出す。
母親はその子を強く抱きしめた。
「よかった……!」
何度も頭を下げる母親へ、渚先生が応対している。
やがて女の子が、もう一度茉里絵のところへやってきた。
「お姉ちゃん」
「はい?」
「ありがとう」
そして。
「お姉ちゃん、すごく優しかった」
それだけ言うと、母親のもとへ戻っていった。
「…………」
茉里絵は、その後ろ姿を見送った。
「まりちゃん」
隣にユリシアが立っている。
「すごいね」
「何がですの?」
「だって、あの子、まりちゃんと話してからすぐ泣き止んだもん」
柚羽も頷く。
「茉里絵先輩って、話してると安心するんですよね」
「それ分かる」
綾香まで加わった。
「なんというか……ちゃんと話を聞いてくれるっていうか」
「…………」
雫が腕を組んだ。
「ほらね」
「え?」
「みんな茉里絵のこと、ちゃんと見てるじゃない」
その一言で。
さっきまでの雫との会話が、茉里絵の中でつながった。
自分がずっと気にしていたもの。
人からどう見られているのか。
そればかり考えていた。
けれど。
今日、一番最初に友人たちが気づいたのは。
自分がタオルで何を隠していたかではなく。
自分が心から笑えていなかったことだった。
迷子の女の子が見つけてくれたのも。
自分が嫌っている部分ではない。
「優しいお姉ちゃん」。
ただ、それだけだった。
「……そうでしたのね」
茉里絵が呟く。
「ん?」
ユリシアが首を傾げる。
「いいえ」
茉里絵は笑った。
今度は。
いつもの令嬢らしい完璧な微笑みではなく。
少しだけ目を細めた、自然な笑顔だった。
「何でもありませんわ♡」
午後。
六人はもう一度、海へ入った。
茉里絵はタオルをレジャーシートの上へ置いた。
完全に気にならなくなったわけではない。
たぶん明日になれば、また気になる。
学院へ帰れば。
服を選ぶ時に、また悩むかもしれない。
それでいい。
今日一日で、全部変わる必要なんてない。
「まりちゃーん!」
「早くー!」
海の中からユリシアと柚羽が手を振っている。
「茉里絵! ぼーっとしてると置いてくわよ!」
雫まで叫んでいる。
「今参りますわ!」
茉里絵は走り出した。
波打ち際へ。
友人たちのところへ。
途中で、ふと立ち止まる。
振り返ると。
砂浜には、自分が置いてきたタオルがあった。
茉里絵はそれを数秒眺めた。
そして。
そのまま海へ向かって走った。
タオルを置いたことそのものが、大切なのではない。
必要になれば、また使えばいい。
ただ今は。
隠れるためではなく、遊び終わったあと身体を拭くために、そこへ置いておきたかった。
それだけだった。
「ユリちゃん!」
「まりちゃん、遅ーい!」
「今行きますわ!」
ざぶんっ。
波の中へ飛び込む。
「きゃっ!」
「まりちゃん!?」
「ふふふっ!」
いつもより少し大きな茉里絵の笑い声が、夏の海へ響いた。
そして。
その少し離れたところで。
「…………」
綾香が一人、海を眺めていた。
ユリシアと雫が騒いでいる。
柚羽が笑っている。
茉里絵まで、さっきよりずっと楽しそうにしている。
夏の海。
友達。
くだらない笑い声。
去年までなら。
こんな景色の中に、自分がいるなんて想像もしなかった。
「……私、本当に来たんだ」
綾香が小さく呟く。
その声は。
誰にも聞こえなかった。
けれど。
口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
――第4話へ続く。


