「……私、本当に来たんだ」
綾香が小さく呟いた。
目の前には、夕方へ傾き始めた夏の海。
少し離れた波打ち際では。
「ユリシア! そっち行った!」
「分かってるよぉ!」
「わあっ、雫先輩! こっちですっ!」
「柚羽、それ私じゃなくて茉里絵の方!」
「まあ!?」
ばしゃんっ!
盛大な水しぶきとともに、四人の笑い声が聞こえてくる。
少し前まで。
あの景色は、自分にとって「見るもの」だった。
誰かが笑って。
誰かがふざけて。
どうでもいいことで大騒ぎして。
そんな青春らしい時間を。
自分は、いつも少し離れたところから眺めていた。
羨ましいと思ったこともある。
でも。
だからといって、自分からその輪へ入っていく方法も分からなかった。
「…………」
綾香は膝を抱えたまま、海を見つめる。
その時。
「綾香ちゃーん!」
聞き慣れた声が飛んできた。
「?」
顔を上げる。
ユリシアが、両手を大きく振っている。
「何してるのー! 早く来てー!」
「……私?」
「綾香ちゃん以外に誰がいるのー!」
その横で雫が叫んだ。
「早くしなさいよ! 人数足りないんだから!」
「人数?」
綾香が眉を寄せる。
柚羽が両手で丸いものを抱えながら走ってきた。
ビーチボールだった。
「三対三で勝負することになったんです!」
「……三対三?」
綾香はみんなを数える。
ユリシア。
雫。
茉里絵。
柚羽。
自分。
そして――。
「私も参加するのですか?」
渚先生が、一番驚いた顔をしていた。
「当然でしょ!」
雫が即答した。
「六人いるんだから!」
「私は引率者なのですが……」
「渚先生が一番運動できるじゃん!」
ユリシアまで加勢する。
「それはそういう問題では――」
「先生、お願いしますっ!」
柚羽が両手を合わせる。
「うっ……」
渚先生が言葉に詰まった。
「…………」
五人の視線が集まる。
やがて。
「……分かりました」
渚先生はため息をついた。
「ただし、無茶はしないこと。水分補給も忘れないこと。それから――」
「わーい!」
「まだ話は終わってません!」
綾香は思わず吹き出した。
「ふふっ……」
「あ」
ユリシアが綾香を見る。
「綾香ちゃん、笑った」
「え?」
「なんでもなーい♡」
「何よ、それ」
そう言いながら。
綾香は立ち上がった。
チーム分けは、じゃんけんで決まった。
ユリシア、柚羽、渚先生。
対して。
雫、茉里絵、綾香。
「ちょっと待ちなさいよ!」
組み分けを見た雫が抗議する。
「何ですか?」
渚先生が首を傾げた。
「そっちに体育教師がいるの、反則じゃない!?」
「じゃんけんで決めたでしょう」
「戦力差ってものがあるでしょ!」
「雫さん」
茉里絵が優雅に微笑む。
「勝負は始まる前から諦めてはいけませんわ」
「そういう精神論じゃないのよ!」
綾香は横で肩をすくめた。
「まあ、いいじゃない。遊びなんだから」
すると。
雫がゆっくり綾香を見る。
「……綾香」
「何よ」
「今、遊びって言った?」
「言ったけど」
「私は勝負だと思ってるんだけど」
「…………」
雫の目が本気だった。
「面倒くさ……」
「聞こえたわよ!」
「さあ、始めますわよ」
茉里絵が楽しそうにボールを持った。
最初の数分間は、意外にも接戦だった。
「柚羽!」
「はいっ!」
ぽーん。
柚羽が受けたボールをユリシアへ。
「えいっ!」
ユリシアが思い切り打ち返す。
しかし。
「甘い!」
雫が綺麗に拾った。
「綾香!」
「はいはい!」
綾香が受け、
茉里絵へ。
「参りますわ!」
ぽーん。
優雅なフォームから放たれたボールが、綺麗な弧を描く。
「先生!」
「任せてください!」
渚先生が踏み込んだ。
そして。
ばしぃぃんっ!!
「…………」
五人が固まった。
ビーチボールは。
空高く。
ものすごい勢いで飛んでいった。
「…………」
「…………」
「…………」
ぽーん。
ぽーん。
ぽーん。
小さくなっていく。
「……渚先生」
雫が呟く。
「はい」
「ビーチボールですよ?」
「……はい」
「バレーボールじゃないですよ?」
「……はい」
渚先生の頬が赤くなる。
「ち、力加減を少し……」
ユリシアが海の向こうを指差した。
「先生! ボール流されてる!」
「ええっ!?」
次の瞬間。
「私が取ってきます!」
マッスル渚が猛然と海へ走り出した。
「速っ!」
綾香が思わず叫ぶ。
「先生、本気だ!」
柚羽まで驚いている。
「あれ、泳いで追いつくつもり!?」
雫が目を丸くする。
茉里絵だけが、
「さすが渚先生ですわ……」
と妙に感心していた。
そして。
数十秒後。
ボールを片手に掲げて戻ってくる渚先生の姿を見た瞬間。
綾香は耐えられなくなった。
「あはっ……」
「?」
「あははははっ!」
声を上げて笑った。
お腹を押さえて。
目に涙が浮かぶくらい。
「ちょっ……何よあれ……!」
雫も吹き出した。
「ビーチボール一個に本気出しすぎでしょ!」
「あはははっ!」
ユリシアも笑う。
柚羽も。
茉里絵も。
そして戻ってきた渚先生まで、最初は困った顔をしていたのに、やがて一緒に笑い始めた。
「もう……皆さん、笑いすぎです!」
その言葉で。
また全員が笑った。
何がおかしいのか。
途中から分からなくなっていた。
でも。
それがまた、おかしかった。
「疲れたぁ……」
しばらくして。
六人は海の家のテーブルを囲んでいた。
目の前には、色とりどりのかき氷。
ユリシアは青。
柚羽は苺。
茉里絵は抹茶。
雫はレモン。
綾香はメロン。
渚先生は――。
「先生、何味ですか?」
柚羽が尋ねる。
「みぞれです」
「渋っ!」
雫が即座に突っ込んだ。
「いいでしょう!? 好きなんです!」
珍しく渚先生が少しむきになった。
「渚先生って、こういうところ妙に古風だよね」
ユリシアが言う。
「ユリシアさんまで!?」
綾香はスプーンを口に運びながら、そのやり取りを眺めていた。
そして。
「綾香ちゃん!」
「ん?」
向かい側のユリシアが、いきなり舌を出した。
「べーっ」
「…………」
真っ青だった。
「何してんのよ!」
「あははっ! 青くなった!」
「当たり前でしょ、ブルーハワイ食べてるんだから!」
「綾香ちゃんも見せて!」
「嫌よ!」
「えー!」
「私も見たいです!」
柚羽まで乗ってくる。
「柚羽まで何言ってるの!」
「だってメロンだから、緑になるのかなって」
「ならないわよ!」
「やってみないと分かんないよぉ」
「分かるわよ!」
数秒後。
「…………」
綾香は。
べーっ。
「わあっ!」
「ちょっと緑!」
「本当ですわ!」
「写真撮ろ!」
「撮らないで!!💢」
また。
笑い声が起きた。
どうでもいい。
本当に。
どうでもいいことだった。
かき氷で舌の色が変わった。
ただ、それだけ。
なのに。
こんなに笑える。
海の家を出たあと。
綾香は何気なくスマートフォンを取り出した。
「せっかくだし、一枚撮る?」
「撮るー!」
いつものように。
綾香はカメラを起動する。
そして五人へ向けた。
「じゃあ、そこ並んで」
すると。
「え?」
ユリシアが首を傾げた。
「何?」
「綾香ちゃんは?」
「私は撮るから」
「ダメ」
「……は?」
ユリシアが当然のように言った。
「綾香ちゃんも入るの」
「いや、でも誰が撮るのよ」
「タイマーがありますよ!」
柚羽が嬉しそうに答える。
「あ」
「それに」
雫が腕を組む。
「毎回あんたが撮る側じゃ、五人の旅行みたいになるじゃない」
「…………」
「六人で来てるんでしょ?」
綾香の指が止まった。
「……そうね」
スマートフォンを岩の上へ置く。
タイマーを十秒に設定。
「押すわよ!」
ぴっ。
十。
九。
「早くー!」
八。
「ユリシア、押さないで!」
「まりちゃん、もっとこっち!」
七。
「柚羽さん、足元お気をつけて!」
六。
「渚先生、そこだと端すぎます!」
「え、私ですか!?」
五。
「綾香! 早く!」
「分かってるわよ!」
四。
綾香が走る。
三。
ユリシアが腕を伸ばした。
「綾香ちゃん、こっち!」
二。
「ちょっ――」
ぐいっ。
一。
ぱしゃっ。
「…………」
六人で画面を覗き込む。
そこに写っていたのは。
完璧な集合写真ではなかった。
渚先生は何か言いかけている。
雫は横を向いている。
茉里絵は笑っている。
柚羽は少し目をつぶりかけている。
ユリシアは満面の笑顔。
そして綾香は。
ユリシアに引っ張られたせいで、少し体勢を崩しながら笑っていた。
「これ、撮り直す?」
柚羽が尋ねる。
「うーん……」
ユリシアが画面を見つめる。
「私は好きだよ?」
「私もですわ」
茉里絵が微笑む。
「なんか今日っぽいもの」
雫も頷いた。
綾香は何も言わず。
もう一度、写真を見た。
昔だったら。
髪がどう見えるか。
構図はどうか。
光はどうか。
そんなところが真っ先に気になったかもしれない。
でも今日は。
そんなことは、どうでもよかった。
写っている。
自分も。
ちゃんと。
みんなと同じ場所に。
今年の夏。
綾香は、一つの映像を作った。
『フレームのむこうがわ』。
そこに込めたものは。
大げさな夢なんかではなかった。
自分だって夏を楽しんでみたい。
友達と。
どうでもいいことで笑ったり。
くだらないことで騒いだり。
そんな。
誰かにとっては当たり前のことを。
自分も、一度くらいしてみたかった。
花火大会では。
その願いが少しだけ叶った。
そして今日。
海で走って。
水をかけられて。
ビーチボールを打ち合って。
渚先生の全力スパイクに笑って。
かき氷で舌を緑色にして。
みんなで写真を撮った。
「…………」
綾香はスマートフォンを胸の前へ戻した。
「綾香ちゃん?」
ユリシアが覗き込む。
「何でもない」
「ほんと?」
「ほんと」
綾香はもう一度写真を見る。
そして。
小さく笑った。
「……叶っちゃったな」
「え?」
「だから、何でもないって」
「気になるー!」
「いいの!」
帰り道。
夕陽が海を橙色に染めていた。
六人は宿へ向かって歩いていく。
ユリシアと柚羽が前を歩き。
その後ろで雫と茉里絵が何かを話している。
渚先生は全員が揃っているか、時々後ろを確認している。
綾香は。
その真ん中を歩いていた。
誰かに引っ張られたわけではない。
いつの間にか。
そこが自分の場所になっていた。
「綾香ちゃん」
隣を歩く柚羽が声をかけた。
「さっきの写真、あとで送ってもらってもいいですか?」
「もちろん」
「私、すごく好きです。あの写真」
「……私も」
「え?」
「何でもない」
「またそれですか?」
柚羽が笑った。
綾香も笑う。
「じゃあ宿に戻ったら送るわよ」
「ありがとうございます!」
その時。
柚羽がふと立ち止まった。
「あっ」
「どうしたの?」
「レジャーシート……」
「え?」
柚羽が後ろを振り返る。
「私、ちゃんと畳んだかな……?」
「さっき持ってたじゃない」
「そうでしたっけ?」
「クーラーボックスの横に入れてたわよ」
「本当ですか!?」
「本当」
「よかったぁ……」
胸を撫で下ろす柚羽。
その姿を見て。
綾香は少し笑った。
「柚羽って、みんなのことはよく見てるのに、自分のことになると結構抜けてるのね」
「ええっ!?」
「褒めてるのよ」
「それ、褒めてます?」
「半分くらい」
「ひどいですー!」
二人の声が夕暮れの海岸へ響く。
その少し先から。
「早くー!」
ユリシアが手を振った。
「夕飯なくなっちゃうよー!」
「なくならないわよ!」
綾香が叫び返す。
そして。
柚羽と一緒に。
みんなのところへ走っていった。
もう。
フレームの向こう側ではない。
この夏の中に。
自分も、ちゃんといる。
――第5話へ続く。


