第1話 おにいたん、一人で大丈夫?

女子六人、夏の海へ。和先生には内緒の一泊二日第3学年

八月も、もう残りわずか。

暦の上では夏の終わりが近づいているはずなのに、窓の外では今日も容赦なく太陽が照りつけていた。

「……暑い」

ユリシアはリビングのソファに座ったまま、ぐったりとテーブルへ頬をつけた。

エアコンは動いている。それでも、窓から差し込む光を見ているだけで暑くなってくるような気がする。

「今年の夏、絶対おかしいよぉ……」

そんな一言から始まった話だった。

夏休みも終盤。

せっかくなら最後にみんなでどこかへ行きたい――。

秘密のおしゃべり部屋でそんな話題が出ると、候補はあっという間に海へ決まった。

ユリシア、雫、茉里絵、綾香、柚羽。

そして、生徒だけでは学院から正式な活動として認めてもらえないため、引率役として渚先生にも参加してもらうことになった。

さらに学院には、生徒の自主的な課外活動を支援する制度がある。

一定の条件を満たせば、交通費や宿泊費の一部を補助してもらえるのだ。

ただし――。

学院の補助を受ける以上、完全な私的旅行ではなく、扱いとしては校外活動の一種になる。

そのため、水着も学院指定。

そして必ず教員一名以上の引率が必要だった。

そこまでは、よかった。

問題は。

「えええええっ!? おにいたん来ないのぉ!?」

ユリシアの声が、リビングいっぱいに響いた。

向かいに座っていた和先生が、少し困ったように眼鏡を直す。

「渚先生が引率してくれるんだから、俺は必要ないだろう?」

「必要だよぉ!」

即答だった。

「どうして?」

「だって……」

ユリシアは言いかけて、むぅ、と頬を膨らませた。

もちろん、一緒に海へ行きたい。

せっかくの旅行なのだから、おにいたんにもいてほしい。

けれど――今のユリシアがまず思い浮かべたのは、それとは少し違うことだった。

「……おにいたん、二日間ちゃんと生活できる?」

「…………」

和先生の表情が止まった。

「いや、ユリ。俺だって一応、大人なんだけど」

「知ってるよ?」

「なら大丈夫だよ」

「それとこれとは別だもん」

まったく信用していない顔だった。

和先生は困ったように笑った。

「ひどいなあ……」


旅行前夜。

自分の旅行鞄より先に、ユリシアが準備していたものは――和先生の二日分の生活だった。

冷蔵庫を開ければ、

『今日の夜ごはん』

『明日の朝』

『明日のお昼』

と書かれた付箋付きの保存容器がきっちり並んでいる。

冷蔵庫の前、付箋だらけの保存容器と世話焼きユリシア

さらに横には、

『これは温めるだけ!』

『野菜も食べてね』

『朝はコーヒーだけじゃダメ!』

という念押しまで貼られていた。

「ユリ……」

後ろから覗き込んだ和先生が苦笑する。

「ここまでしなくても大丈夫だよ」

「するの」

ユリシアは振り返りもせず、冷蔵庫の中を確認する。

「お味噌汁はこっち。ご飯は冷凍してあるから。明日の朝は――」

「分かった、分かった」

「まだ終わってないよ?」

「まだあるのかい?」

今度は洗面所。

「歯、ちゃんと朝と夜に磨いてね」

「磨くよ」

「お風呂も入ってね」

「入るって」

「あと――」

ユリシアは少しだけ真剣な顔になった。

「下着もちゃんと毎日取り替えてね?」

和先生は数秒、黙った。

「……ユリ。俺はそこまで信用ないのかい?」

「だって、用意してあっても、おにいたんが取り替えなかったら意味ないもん」

「ちゃんと替えるよ」

「ほんと?」

「ほんとだって」

ユリシアはじーっと和先生の顔を見つめる。

やがて、ようやく納得したらしい。

「よしっ♡」

和先生は小さくため息をついた。

「まったく……旅行に行くのはユリなのに、どうして俺の方が準備させられてるんだろうな」

「だって心配なんだもん♡」

それを言われると、和先生もそれ以上は何も言えなかった。

そしてユリシアは、ようやく自分の荷造りを始めた。


翌朝。

学院前には、ユリシアを含む五人の生徒と渚先生が集合していた。そんな中、ユリシアはスマートフォンとにらめっこしていた。

「ユリシア、さっきから何してるの?」

雫が横から覗き込む。

「おにいたんに確認してるの」

「何を?」

「朝ごはん食べたかどうか」

綾香が目を瞬かせた。

「……小学生?」

「違うもん!」

ユリシアはすぐに否定した。

「おにいたん、家のことになると心配なんだもん!」

茉里絵が口元に手を添えて微笑む。

「まあ……ユリちゃんが二日間留守になさるというのは、和先生にとっては一大事なのですわね」

「そうなの!」

そこは否定しない。

柚羽がくすくす笑った。

「ユリシア先輩、なんだか奥さまみたいです♪」

「えへへ♡」

今度は否定するどころか、嬉しそうだった。

雫が呆れた顔をする。

「まだでしょ」

「いつかなるもん♡」

「はいはい」

そのやり取りを聞いていた渚先生は、何とも言えない笑顔を浮かべていた。

「皆さん、そろそろ出発しますよ。忘れ物はありませんね?」

「はーい!」

六人を乗せた車が、夏の学院を後にした。


しばらく走った頃。

窓の外の街並みが少しずつ郊外の景色に変わり始めた。

ユリシアはまたスマートフォンを確認する。

和先生から返事が来ていた。

『ちゃんと朝ごはん食べたよ。歯も磨いた。だから心配しないで、旅行を楽しんでおいで』

それを読んで、ユリシアはほっと息をついた。

そしてすぐに、

『お昼もちゃんと食べてね!』

と返信する。

ほどなくして、

『はいはい。分かってるよ😊』

返ってきたその短いメッセージを見て、ユリシアは嬉しそうにスマートフォンを胸元へ抱えた。

隣に座っていた雫が、その様子を横目で見る。

「……でもさ」

「ん?」

「ユリシア、ちょっと変わったよね」

「え?」

前の席から綾香が振り返った。

「何が?」

雫は少し考えてから言った。

「前だったら、和先生を置いて一泊旅行なんてしたら……もっと別のこと心配してたじゃない」

ユリシアはしばらく黙っていた。

それから、小さく笑った。

「ああ……うん」

綾香が首を傾げる。

「前って?」

すると茉里絵が楽しそうに答えた。

「以前のユリちゃんは、和先生が他の女性を少し褒めただけでも、それはそれは大変でしたのよ」

「まりちゃん!」

「アニメの女の子相手でもね」

雫まで付け加える。

「雫ちゃんまでぇ!」

綾香が思わず吹き出した。

「そんなだったの?」

「そ、そんなって……!」

ユリシアは真っ赤になった。

けれど、やがて窓の外へ目を向ける。

流れていく夏の景色を眺めながら、少しだけ穏やかな声で言った。

「……でもね」

みんながユリシアを見る。

「今は、そこはあんまり心配してないんだ」

「どうして?」

柚羽が優しく尋ねた。

ユリシアは少し考えた。

「おにいたんがアオちゃんのこと大好きなのは知ってるし、みんなのことを大切にしてるのも知ってるよ」

そこで一度、言葉を切る。

「でもね。この前、おにいたんが言ってくれたの」

アオちゃんに夢中で、バニーの日を一日忘れただけでも本気で謝ってしまうようなおにいたん。

そんな人が、自分の誕生日については――。

「私の誕生日は、カレンダーに書かなくても忘れるわけないって」

ユリシアの頬が、少しだけ赤くなる。

「ずっと昔からお祝いしてるんだからって」

幼い頃から。

まだ自分一人では何もできなかった頃から。

泣いた日も、笑った日も、病気になった日も。

おにいたんはいつもそばにいた。

「だからね……」

ユリシアは胸の前でそっと手を重ねた。

「私とおにいたんの間にあるものって、誰かと比べて勝ったとか負けたとか、そういうものじゃないんだなって思うようになったの」

車内が一瞬だけ静かになった。

雫が目を細める。

茉里絵は優しく微笑んでいる。

最近この輪に入った綾香は、少し意外そうにユリシアを見ていた。

渚先生も何も言わず、その言葉を聞いていた。

そしてユリシアは、満面の笑みを浮かべた。

「だから焦らなくてもいいの♡」

雫が少し感心したように頷く。

「へえ……ずいぶん大人になったじゃない」

「うん!」

そして次の瞬間。

「最後におにいたんのお嫁さんになればいいんだもん♡」

「結局そこなの!?」

雫の声が車内に響いた。

茉里絵が吹き出し、柚羽も笑う。

綾香は頭を抱えた。

渚先生だけが、

「…………」

一瞬、笑顔のまま固まっていた。

車内での「結局そこなの!?」の群像リアクション

ユリシアが振り返る。

「渚先生?」

「い、いえ。何でもありません」

まだ旅行は始まったばかりなのに。

渚先生の胸の中に、ほんの小さな波紋が生まれたことを――その時のユリシアは知らなかった。


やがて。

「見えてきた!」

柚羽の声に、みんなが窓の外を見る。

青い空の下。

きらきらと光る海が、視界いっぱいに広がった。

「わぁぁぁぁっ!!」

一番最初に声を上げたのは、さっきまで和先生の生活を心配していたユリシアだった。

宿に荷物を預け、学院指定の水着へ着替える。

生徒五人には、それぞれクラスと名前の入った名札。

渚先生だけは、学院のエンブレムが入った教員用の競泳水着。

海岸へ出ると、潮の香りと熱い風が六人を迎えた。

「皆さん!」

渚先生が教師らしい声を上げる。

「遊泳区域から出ないこと。水分補給を忘れないこと。それから――」

「はーい!」

説明の途中で、ユリシアが海へ向かって駆け出した。

海が見えた瞬間、駆け出すユリシアと追いかける4人

「ユリシアさん! まだ話は終わっていません!」

「ごめんなさーい! でも海だよぉーっ!」

「もう……!」

その後ろから柚羽が走る。

茉里絵が笑いながら追い、

綾香もつられて走り出す。

そして。

「ちょっと、待ちなさいよ!」

そう言いながら――結局、雫も一番速い勢いで追いかけていった。

渚先生は一人、砂浜に取り残される。

「……本当にもう」

困ったようにため息をつきながら。

その顔は、少し笑っていた。

こうして。

和先生のいない――

女子六人だけの、一泊二日の小旅行が始まった。

そしてこの時はまだ誰も知らなかった。

この旅行が、ただ海で遊ぶだけでは終わらないことを。

笑って。

競って。

少しだけ本音をこぼして。

それぞれが、いつもとは違う顔を見せる二日間になることを――。

――第2話へ続く。