「海だよぉぉぉっ!!」
渚先生の説明がまだ終わっていないというのに、ユリシアは砂浜を蹴って駆け出した。
「ユリシアさん! 待ってください! まだ注意事項が――!」
渚先生の声が背後から飛んでくる。
けれど、もう遅い。
「わあっ、ユリシア先輩、待ってくださーい!」
柚羽が続き、
「まあ、元気ですこと」
と笑いながら茉里絵も走り、
綾香までその勢いにつられて駆け出した。
そして――。
「ちょっと! 勝手に始めないでよ!」
最後に雫が走った。
いや。
正確には。
最後に走り出したのに、数秒後には柚羽と綾香を抜き、茉里絵を抜き――。
「雫ちゃん、速っ!?」
ユリシアのすぐ後ろまで迫っていた。
「体育の授業で何年走ってると思ってるのよ!」
「それ、みんな同じだよぉ!」
「芸能界は体力勝負なの!」
「理由になってないよぉ!」
二人はそのまま波打ち際へ突っ込んだ。
ばしゃあっ!!
真っ白な水しぶきが上がる。
「きゃあっ!」
先に悲鳴を上げたのはユリシアだった。
「つ、冷たぁい!」
「海なんだから当たり前でしょ!」
そう言った雫の足元にも、次の波が押し寄せる。
「ひゃっ!?」
一瞬だけ肩を跳ねさせた雫を、ユリシアは見逃さなかった。
「雫ちゃんも冷たいんじゃん!」
「う、うるさい!」
「えいっ!」
ユリシアが両手ですくった海水を浴びせる。
「…………」
雫の前髪から、ぽたぽたと雫が落ちた。
「……ユリシア」
「はい」
「今の、宣戦布告ってことでいいのね?」
「えっ」
次の瞬間。
ばしゃあああっ!!
「きゃああああっ!!」
今度はユリシアの全身に海水が降り注いだ。
「やったなぁー!」
「先にやったのはそっちでしょ!」
「もう一回!」
「望むところよ!」
「もう……あの二人ったら」
少し遅れて波打ち際まで来た渚先生が、額を押さえる。
その横で、茉里絵が楽しそうに笑った。
「でも、とても楽しそうですわ」
「楽しむこと自体はいいのですが……」
渚先生は教師らしく辺りを確認する。
「皆さん、あまり沖へ行かないでくださいね! それと、こまめに水分補給を――」
ばしゃっ。
小さな水しぶきが、渚先生の足元へ飛んできた。
「…………」
犯人は柚羽だった。
「あっ……」
柚羽の顔が固まる。
「す、すみません渚先生! わざとじゃ……!」
渚先生は足元を見た。
それから柚羽を見る。
「……柚羽さん」
「はいっ!」
「海ですから、そのくらいは大丈夫ですよ」
にこり。
「よかったぁ……」
柚羽が胸を撫で下ろした、その時だった。
「柚羽!」
雫の声。
「え?」
振り向いた瞬間。
ばしゃっ!
「きゃっ!」
今度は柚羽が水をかぶった。
「雫先輩ぃ!」
「ぼーっとしてるからよ!」
雫は楽しそうに笑っていた。
普段、学院で見せる少し尖った笑い方でもない。
カメラの前で作る完璧な笑顔でもない。
ただ単純に、楽しいから笑っている。
そんな顔だった。
しばらくして。
六人はいったん波打ち際から上がり、砂浜に敷いたレジャーシートへ戻った。
「ちょっと休憩しましょう」
渚先生がスポーツドリンクを配る。
「まだ遊べるよぉ」
ユリシアが不満そうに言う。
「だからこそ休むんです。熱中症になってからでは遅いんですよ」
「はーい……」
ユリシアは素直にペットボトルを受け取った。
雫もタオルを肩へ掛け、その場に腰を下ろす。
その隣に柚羽がちょこんと座った。
「雫先輩」
「ん?」
「さっき、すっごく楽しそうでしたね」
「そう?」
「はい!」
柚羽は満面の笑みだった。
「いつもの雫先輩も格好いいですけど……さっきの雫先輩、なんだかお姉ちゃんみたいでした」
「誰がお姉ちゃんよ」
即座に返したものの、声はまったく怒っていない。
「でも私、嬉しいです」
「何が?」
「こうやって雫先輩と遊べるのが」
柚羽は海を見ながら言った。
「去年の夏は、私……みんなについていくだけで精一杯だった気がするんです。でも今年は、こうして一緒に旅行まで来られて」
「…………」
「雫先輩にもいっぱい助けてもらったし」
簿記の勉強。
寄宿舎で過ごした夜。
分からないところを何度も教えてもらったこと。
強い言葉の裏にある優しさを、柚羽はもうよく知っている。
「……大げさなのよ」
雫はペットボトルのキャップを閉めた。
「柚羽が頑張ったからでしょ」
「でも――」
「自分でやったことまで人のおかげにしないの」
雫は、柚羽の額を指先で軽くつついた。
「そういうところは、ちゃんと自分で褒めなさい」
「……はいっ」
柚羽は嬉しそうに笑った。
そして。
「雫先輩もですよ?」
「私?」
「はい」
柚羽がスマートフォンを取り出した。
画面には、先ほど撮った写真が映っている。
いつ撮られたのか。
雫本人にも覚えがなかった。
海水を浴びせられ、髪を濡らしながら、ユリシアと大笑いしている自分。
カメラ目線ではない。
ポーズも取っていない。
髪だって少し乱れている。
「……何これ」
雫の眉が寄る。
「私、こんな顔してた?」
「してました♪」
「勝手に撮ったの?」
「ご、ごめんなさい……」
柚羽が慌ててスマートフォンを引っ込めようとする。
「別に消せとは言ってないでしょ」
雫はもう一度画面を見る。
仕事なら、絶対に選ばない写真だ。
光の向きも。
顔の角度も。
髪の流れも。
何一つ計算されていない。
なのに。
――悪くない。
そう思った。
「雫先輩」
「ん?」
柚羽が少しだけ声を落とした。
「その写真……和先生にも見せたいですか?」
一瞬。
雫の指が止まった。
以前なら。
きっと反射的に否定していた。
『どうして私が和先生に見せるのよ』
『関係ないでしょ』
そんな言葉が真っ先に出ていたはずだ。
けれど。
「……うん」
あまりにもあっさり答えたので、今度は柚羽の方が目を丸くした。
雫は海を見たまま続ける。
「見てほしい」
頬が少し熱い。
でも、もう否定する必要はない。
「和先生がここにいたら、たぶん……見てほしかったと思う」
「…………」
「何よ。その顔」
「い、いえ!」
柚羽は慌てて首を振った。
でも、口元が少し嬉しそうだった。
「雫先輩、前よりずっと素直になったなって」
「本人の前では言わないわよ」
「ふふっ」
「笑わないで」
雫もつられて笑った。
「でも……もう、自分にまで嘘つくのは疲れたの」
波が寄せて。
静かに引いていく。
「私は和先生が好き」
そう言った声は、小さかった。
でも、迷いはなかった。
「すごく好き」
柚羽は何も言わない。
ただ、優しく聞いている。
「だから会いたいし、ここにいてくれたらって思う。でも――」
雫は目の前の海を見る。
ユリシアは茉里絵と何かを話している。
綾香は砂浜に文字を書いている。
渚先生は次に遊べる時間を時計で確認している。
「今日は、みんなと来た日だから」
雫は微笑んだ。
「和先生がいないからって、つまらない顔してたらもったいないでしょ」
「……はい!」
柚羽が力強く頷く。
「帰ったら、いっぱい話せばいいんですもんね」
「そういうこと」
「写真も見せて」
「……これはどうしようかな」
「ええっ?」
「だって髪ぼさぼさだし!」
「でも、とってもいい笑顔ですよ?」
「だったらまず、もうちょっとまともな写真撮りなさいよ」
雫は立ち上がった。
そして柚羽へ手を差し出す。
「行くわよ」
「はい!」
柚羽がその手を握る。
本当の姉妹ではない。
けれど。
少なくとも柚羽にとっては、ずっと憧れてきた大切な先輩の手だった。
「ユリシアー!」
海に向かって雫が叫ぶ。
「なぁにー?」
「さっきの勝負、まだ終わってないわよ!」
「えっ!?」
「今度は泳ぎで勝負!」
ユリシアの顔が輝いた。
「やるーっ!」
渚先生が即座に反応する。
「競争するなら、私が見ています! ただし遊泳区域内だけですよ!」
「はーい!」
「雫先輩、頑張ってください!」
「柚羽も参加するのよ」
「ええっ!? 私もですか!?」
「当たり前でしょ」
「む、無理ですぅ!」
笑い声が海へ広がっていく。
雫は再び走り出した。
「雫ちゃん、早くー!」
「今行くわよ!」
和先生は、今日はここにいない。
それでも――。
雫は、自然と笑っていた。
こんな夏も、悪くない。
いや。
きっと、こういう夏を私はずっと欲しかったのかもしれない。
昼近く。
散々泳いだ六人は、ようやく砂浜へ戻ってきた。
「お腹すいたぁ……」
ユリシアがレジャーシートへ倒れ込む。
「宿に戻れば昼食を用意してくださっているそうですよ」
渚先生が答えた。
「やったぁ!」
「では皆さん、荷物をまとめて――」
その時。
雫は、少し離れたところにいる茉里絵に気づいた。
皆がタオルを肩に掛けている中。
茉里絵だけが、大きなバスタオルを身体の前へそっと寄せるようにしている。
笑ってはいる。
いつもの、上品な微笑み。
けれど。
雫は知っていた。
あれは。
本当に安心している時の茉里絵の笑顔ではない。
「……茉里絵?」
「はい?」
「何でもない」
雫はそれ以上は聞かなかった。
ただ。
いつもよりほんの少しだけ、茉里絵の歩幅に合わせて歩いた。
海辺の一日は。
まだ、これからだった。
――第3話へ続く。


