第2話 カメラの外の、私の夏

女子六人、夏の海へ。和先生には内緒の一泊二日第3学年

「海だよぉぉぉっ!!」

渚先生の説明がまだ終わっていないというのに、ユリシアは砂浜を蹴って駆け出した。

「ユリシアさん! 待ってください! まだ注意事項が――!」

渚先生の声が背後から飛んでくる。

けれど、もう遅い。

「わあっ、ユリシア先輩、待ってくださーい!」

柚羽が続き、

「まあ、元気ですこと」

と笑いながら茉里絵も走り、

綾香までその勢いにつられて駆け出した。

そして――。

「ちょっと! 勝手に始めないでよ!」

最後に雫が走った。

いや。

正確には。

最後に走り出したのに、数秒後には柚羽と綾香を抜き、茉里絵を抜き――。

「雫ちゃん、速っ!?」

ユリシアのすぐ後ろまで迫っていた。

「体育の授業で何年走ってると思ってるのよ!」

「それ、みんな同じだよぉ!」

「芸能界は体力勝負なの!」

「理由になってないよぉ!」

二人はそのまま波打ち際へ突っ込んだ。

ばしゃあっ!!

真っ白な水しぶきが上がる。

「きゃあっ!」

先に悲鳴を上げたのはユリシアだった。

「つ、冷たぁい!」

「海なんだから当たり前でしょ!」

そう言った雫の足元にも、次の波が押し寄せる。

「ひゃっ!?」

一瞬だけ肩を跳ねさせた雫を、ユリシアは見逃さなかった。

「雫ちゃんも冷たいんじゃん!」

「う、うるさい!」

「えいっ!」

ユリシアが両手ですくった海水を浴びせる。

「…………」

雫の前髪から、ぽたぽたと雫が落ちた。

「……ユリシア」

「はい」

「今の、宣戦布告ってことでいいのね?」

「えっ」

次の瞬間。

ばしゃあああっ!!

「きゃああああっ!!」

今度はユリシアの全身に海水が降り注いだ。

「やったなぁー!」

「先にやったのはそっちでしょ!」

「もう一回!」

「望むところよ!」

二人の水かけ合戦が始まった。水かけ合戦、ユリシア vs 雫のクライマックス


「もう……あの二人ったら」

少し遅れて波打ち際まで来た渚先生が、額を押さえる。

その横で、茉里絵が楽しそうに笑った。

「でも、とても楽しそうですわ」

「楽しむこと自体はいいのですが……」

渚先生は教師らしく辺りを確認する。

「皆さん、あまり沖へ行かないでくださいね! それと、こまめに水分補給を――」

ばしゃっ。

小さな水しぶきが、渚先生の足元へ飛んできた。

「…………」

犯人は柚羽だった。

「あっ……」

柚羽の顔が固まる。

「す、すみません渚先生! わざとじゃ……!」

渚先生は足元を見た。

それから柚羽を見る。

「……柚羽さん」

「はいっ!」

「海ですから、そのくらいは大丈夫ですよ」

にこり。

「よかったぁ……」

柚羽が胸を撫で下ろした、その時だった。

「柚羽!」

雫の声。

「え?」

振り向いた瞬間。

ばしゃっ!

「きゃっ!」

今度は柚羽が水をかぶった。

「雫先輩ぃ!」

「ぼーっとしてるからよ!」

雫は楽しそうに笑っていた。

普段、学院で見せる少し尖った笑い方でもない。

カメラの前で作る完璧な笑顔でもない。

ただ単純に、楽しいから笑っている。

そんな顔だった。


しばらくして。

六人はいったん波打ち際から上がり、砂浜に敷いたレジャーシートへ戻った。

「ちょっと休憩しましょう」

渚先生がスポーツドリンクを配る。

「まだ遊べるよぉ」

ユリシアが不満そうに言う。

「だからこそ休むんです。熱中症になってからでは遅いんですよ」

「はーい……」

ユリシアは素直にペットボトルを受け取った。

雫もタオルを肩へ掛け、その場に腰を下ろす。

その隣に柚羽がちょこんと座った。

「雫先輩」

「ん?」

「さっき、すっごく楽しそうでしたね」

「そう?」

「はい!」

柚羽は満面の笑みだった。

「いつもの雫先輩も格好いいですけど……さっきの雫先輩、なんだかお姉ちゃんみたいでした」

「誰がお姉ちゃんよ」

即座に返したものの、声はまったく怒っていない。

「でも私、嬉しいです」

「何が?」

「こうやって雫先輩と遊べるのが」

柚羽は海を見ながら言った。

「去年の夏は、私……みんなについていくだけで精一杯だった気がするんです。でも今年は、こうして一緒に旅行まで来られて」

「…………」

「雫先輩にもいっぱい助けてもらったし」

簿記の勉強。

寄宿舎で過ごした夜。

分からないところを何度も教えてもらったこと。

強い言葉の裏にある優しさを、柚羽はもうよく知っている。

「……大げさなのよ」

雫はペットボトルのキャップを閉めた。

「柚羽が頑張ったからでしょ」

「でも――」

「自分でやったことまで人のおかげにしないの」

雫は、柚羽の額を指先で軽くつついた。

「そういうところは、ちゃんと自分で褒めなさい」

「……はいっ」

柚羽は嬉しそうに笑った。

そして。

「雫先輩もですよ?」

「私?」

「はい」

柚羽がスマートフォンを取り出した。

画面には、先ほど撮った写真が映っている。

いつ撮られたのか。

雫本人にも覚えがなかった。

海水を浴びせられ、髪を濡らしながら、ユリシアと大笑いしている自分。

カメラ目線ではない。

ポーズも取っていない。

髪だって少し乱れている。

柚羽がスマホの写真を雫に見せる、砂浜での二人

「……何これ」

雫の眉が寄る。

「私、こんな顔してた?」

「してました♪」

「勝手に撮ったの?」

「ご、ごめんなさい……」

柚羽が慌ててスマートフォンを引っ込めようとする。

「別に消せとは言ってないでしょ」

雫はもう一度画面を見る。

仕事なら、絶対に選ばない写真だ。

光の向きも。

顔の角度も。

髪の流れも。

何一つ計算されていない。

なのに。

――悪くない。

そう思った。


「雫先輩」

「ん?」

柚羽が少しだけ声を落とした。

「その写真……和先生にも見せたいですか?」

一瞬。

雫の指が止まった。

以前なら。

きっと反射的に否定していた。

『どうして私が和先生に見せるのよ』

『関係ないでしょ』

そんな言葉が真っ先に出ていたはずだ。

けれど。

「……うん」

あまりにもあっさり答えたので、今度は柚羽の方が目を丸くした。

雫は海を見たまま続ける。

「見てほしい」

頬が少し熱い。

でも、もう否定する必要はない。

「和先生がここにいたら、たぶん……見てほしかったと思う」

「…………」

「何よ。その顔」

「い、いえ!」

柚羽は慌てて首を振った。

でも、口元が少し嬉しそうだった。

「雫先輩、前よりずっと素直になったなって」

「本人の前では言わないわよ」

「ふふっ」

「笑わないで」

雫もつられて笑った。

「でも……もう、自分にまで嘘つくのは疲れたの」

波が寄せて。

静かに引いていく。

「私は和先生が好き」

そう言った声は、小さかった。

でも、迷いはなかった。

「すごく好き」

柚羽は何も言わない。

ただ、優しく聞いている。

「だから会いたいし、ここにいてくれたらって思う。でも――」

雫は目の前の海を見る。

ユリシアは茉里絵と何かを話している。

綾香は砂浜に文字を書いている。

渚先生は次に遊べる時間を時計で確認している。

「今日は、みんなと来た日だから」

雫は微笑んだ。

「和先生がいないからって、つまらない顔してたらもったいないでしょ」

「……はい!」

柚羽が力強く頷く。

「帰ったら、いっぱい話せばいいんですもんね」

「そういうこと」

「写真も見せて」

「……これはどうしようかな」

「ええっ?」

「だって髪ぼさぼさだし!」

「でも、とってもいい笑顔ですよ?」

「だったらまず、もうちょっとまともな写真撮りなさいよ」

雫は立ち上がった。

そして柚羽へ手を差し出す。

「行くわよ」

「はい!」

柚羽がその手を握る。

本当の姉妹ではない。

けれど。

少なくとも柚羽にとっては、ずっと憧れてきた大切な先輩の手だった。


「ユリシアー!」

海に向かって雫が叫ぶ。

「なぁにー?」

「さっきの勝負、まだ終わってないわよ!」

「えっ!?」

「今度は泳ぎで勝負!」

ユリシアの顔が輝いた。

「やるーっ!」

渚先生が即座に反応する。

「競争するなら、私が見ています! ただし遊泳区域内だけですよ!」

「はーい!」

「雫先輩、頑張ってください!」

「柚羽も参加するのよ」

「ええっ!? 私もですか!?」

「当たり前でしょ」

「む、無理ですぅ!」

笑い声が海へ広がっていく。

雫は再び走り出した。

「雫ちゃん、早くー!」

「今行くわよ!」

和先生は、今日はここにいない。

それでも――。

雫は、自然と笑っていた。

こんな夏も、悪くない。

いや。

きっと、こういう夏を私はずっと欲しかったのかもしれない。


昼近く。

散々泳いだ六人は、ようやく砂浜へ戻ってきた。

「お腹すいたぁ……」

ユリシアがレジャーシートへ倒れ込む。

「宿に戻れば昼食を用意してくださっているそうですよ」

渚先生が答えた。

「やったぁ!」

「では皆さん、荷物をまとめて――」

その時。

雫は、少し離れたところにいる茉里絵に気づいた。

皆がタオルを肩に掛けている中。

茉里絵だけが、大きなバスタオルを身体の前へそっと寄せるようにしている。

笑ってはいる。

いつもの、上品な微笑み。

けれど。

雫は知っていた。

あれは。

本当に安心している時の茉里絵の笑顔ではない。

「……茉里絵?」

「はい?」

「何でもない」

タオルを身体に寄せる茉里絵と、それに気づく雫の後ろ姿

雫はそれ以上は聞かなかった。

ただ。

いつもよりほんの少しだけ、茉里絵の歩幅に合わせて歩いた。

海辺の一日は。

まだ、これからだった。

――第3話へ続く。