ハロウィン一週間前――美咲参謀の実践試験

第3学年素直になりたい雫の恋模様

1.盛りすぎの狐

十月二十四日、土曜日。

ハロウィンまで、あと一週間。

立野家の居間で、雫は鏡の前に立っていた。

「…………」

ふわふわの狐耳。

腰から伸びる、大きな尻尾。

黒と紫のマントに、オレンジ色のかぼちゃのスカート。

そのスカートには、ご丁寧に、ジャック・オ・ランタンの顔まで付いている。

しかもマントは襟が高く、口元には小さな牙。

今年のハロウィンイベント用衣装を着た雫

今年の商店街ハロウィンイベント用に用意された雫の狐×パンプキン衣装

「……盛りすぎじゃない?」

「ハロウィンだもん」

背後で美咲が即答した。

「狐なの? かぼちゃなの? 吸血鬼なの? どれよ!」

「全部」

「欲張りすぎでしょ!」

「だって、お姉ちゃんが頼んだんでしょ?」

「頼んだのは『ちょっと狐っぽいやつ』よ!」

来週の商店街のハロウィンイベントで着る衣装を、茉里絵に頼んだのが間違いだった。

手芸同好会の本気を、完全に見誤っていた。

美咲は腕を組み、満足そうに頷く。

「でも、かわいいよ」

「…………」

「おじちゃんにも見せよ」

「はぁ!?」

雫が振り返った。

「何でそうなるのよ!」

「予行演習」

「何の!?」

「次は実践って言ったでしょ」

嫌な言葉を思い出した。

――ちゃんと本人の前で『楽しい』って言うんだよ。

――『別に』は禁止。

「今日はその前段階」

美咲が人差し指を立てる。

「おじちゃんに衣装を見せて、自分から『どう?』って聞く」

「無理」

「まだ何もしてないよ」

「無理!」

「それで、褒めてもらったら『ありがとう』って言う」

「…………」

「『別に美咲に着ろって言われただけだし』は禁止」

「先回りするな!」

その時。

ピンポーン。

二人の動きが止まった。

雫が、ゆっくり美咲を見る。

美咲は満面の笑顔だった。

「さっき、呼んだ」

「美咲ぃぃぃ!!」

2.想定外の来客

玄関を開けた美咲は、そこで一度、固まった。

和先生が立っている。

そこまでは、想定内だった。

その隣に、もう一人。

白と黒のスポーツウェア。黒髪は運動用にポニーテールにまとめている。

「おはようございます、美咲さん」

渚先生だった。

「お邪魔します。美咲ちゃんから『見てほしいものがある』って連絡をもらったんだけど……ちょうど渚先生とウォーキングの帰りでね」

「ご迷惑でしたら、すぐに失礼しますので」

渚先生が、申し訳なさそうに微笑んだ。

(想定外……)

参謀は、心の中でノートに書き込んだ。

居間の奥では、もっと想定外の事態が起きていた。

「なんで渚先生まで!?」

雫の悲鳴が聞こえる。

逃げようとするマントの端を、美咲が掴んだ。

「逃げちゃダメ」

「無理! 絶対無理!」

「大丈夫。大人が増えただけだから」

「それが一番大丈夫じゃないのよ!」

数分後。

和先生は、居間の入口で固まっていた。

渚先生も固まっていた。

雫も固まっていた。

美咲だけが楽しそうだった。

3.たった二文字

「どう、おじちゃん?」

「え?」

「何であんたが聞くのよ!」

「じゃあ自分で聞いて」

「…………」

美咲が、じっと見る。

雫は狐耳まで赤くなった気がした。

しかも今日は、渚先生が見ている。

「……和先生」

「はい」

「その……」

喉が詰まる。

たった二文字なのに、こんなに難しいなんて。

「…………どう?」

言った。

言ってしまった。

和先生は、少し驚いたあと、いつものように穏やかに笑った。

「去年もキツネ耳だったね」

「……覚えてたの!?」

「もちろん。今年はだいぶ、本格的だけど」

「…………」

「可愛い衣装だね」

「…………っ!!」

顔が一気に熱くなる。

衣装が。

衣装のことよね。

衣装が可愛いって意味で、私が可愛いって意味じゃ――。

頭の中に『別に!』が浮かぶ。

そのすぐ横から、美咲が顔を出す。

――禁止。

雫は拳を握った。

逃げるな。

これくらい、言える。

「……ありがと」

小さい。

でも、ちゃんと言えた。

和先生の表情が、少しだけ柔らかくなる。

「うん」

その横で、渚先生がそっと微笑んだ。

「素敵ですよ、雫さん。……自分から聞くのは、勇気がいりますよね」

「えっ」

雫は目を瞬いた。

見られていた。

全部。

「……ありがとう、ございます」

渚先生にも、ちゃんと言えた。

悔しいくらい、優しい人だった。

4.緊急招集

勢いよく玄関が開いたのは、その直後だった。

「おにいたぁぁぁん!!」

全員が振り向く。

部屋着のまま、息を切らしたユリシアが、居間の入口に立っていた。

「ユ、ユリシア?」

「『美咲ちゃんに呼ばれたので、立野さんのお宅に寄ってから帰ります。渚先生も一緒です』って!」

和先生のメッセージだった。

報告のつもりが、完全に逆効果だった。

「雫ちゃんの家に、渚先生と一緒に!? 私だけ置いてけぼり!?」

「いや、これは偶然で――」

渚先生が慌てて言いかけたところで、ユリシアの視線が、雫に止まった。

「…………」

「何よ」

「…………雫ちゃん」

「だから、何よ」

「……かわいい」

「は?」

「って、ずるい!!」

ユリシアは、スマートフォンを取り出した。

グループチャットを開く。

『緊急招集』

送信。

五秒後。

茉里絵。

『どうかなさいましたの?』

ユリシア。

『雫ちゃんがおにいたんに、ハロウィン衣装を見せてる』

既読が付く。

茉里絵。

『それは、わたくしの作品ですわね』

ユリシアは、スマートフォンを机に立てかけて、ビデオ通話に切り替えた。

画面に、寮の部屋にいる茉里絵が映る。

『ごきげんよう、皆様。雫さん、袖丈の具合はいかが?』

「なんで当然のように見てるのよ!」

『縫製には責任を持つ主義ですの』

「そこは責任持たなくていいのよ!」

「おにいたん!」

ユリシアが、和先生に詰め寄った。

「雫ちゃんに、何か言った!?」

「え?」

「おじちゃん、お姉ちゃんに『可愛い衣装だね』って言ったよ」

美咲が、あっさり告げ口した。

「衣装が!? 雫ちゃんが!?」

「えっと……」

和先生の視線が泳ぐ。

「可愛いと言ったのは衣装のことです。……でも、似合っているのは雫だよ」

沈黙。

「先生」

渚先生が、静かに指摘した。

「また、敬語になっていますよ」

「……なっていますか」

「先生は、追い詰められると敬語になるんです。私の誕生日の夜に、皆さんから問い詰められた時も、そうでした」

「…………」

画面の中で、茉里絵が口元を扇子で隠した。

『実況いたしますわ。和先生、また包囲されておられます』

「実況しないで!」

雫のハロウィン衣装をめぐってユリシアと美咲に問い詰められる和先生を、渚先生とビデオ通話中の茉里絵が見守る賑やかな一幕

雫は、座布団に顔を埋めたかった。

(似合ってるのは、私……)

聞こえてしまった。

全部、聞こえてしまった。

5.協定会議

『さて』

茉里絵の声が、画面から響いた。

『ユリちゃん。雫さんの行動は、協定違反でしょうか』

「むぅ……」

ユリシアは、少し考えた。

「第一条は、『卒業までは、それぞれが先生との思い出を自由に作る』……」

『はい』

「だから、抜け駆けとは、言い切れないけど……」

「抜け駆けじゃないわよ! 美咲が勝手に!」

『つまり、先行ですわね』

茉里絵は、静かに微笑んだ。

『先行であれば、後続を整えれば済む話。協定は『平等に』を旨としておりますもの』

「後続……?」

「それなら」

美咲が、手を挙げた。

「おじちゃん、お姉ちゃんと私と、三人でどこか行こうって言ってたよ」

「えっ」

ユリシアの声が、裏返った。

「三人!? 私は!?」

「それは、その……」

和先生は困り顔だ。

「どこかは、これから決めるって」

「どこかって、来週の商店街のハロウィンイベントでいいんじゃない?」

雫が目を見開いた。

「ちょっと!」

「予行演習の次は、本番だよ」

「私も行く!」

ユリシアが即答した。

「あの……」

渚先生が、控えめに手を挙げる。

「私も、ご一緒してもよろしいでしょうか」

『では、わたくしも』

画面の中の茉里絵が、優雅に頷いた。

『協定上、全員参加が妥当ですわ』

和先生が、天井を見上げた。

「……三人で出かけるだけの、つもりだったんだけど」

「先生」

渚先生が、小声で言う。

「私の誕生日と、同じ展開ですね」

「……あの時は、二人きりのはずが五人になったんだったね」

「今回は、三人のはずが六人です」

「言わないでください」

美咲は、その様子を眺めながら、心の中で呟いた。

(参謀の想定外……)

けれど。

(でも、人が多いほうが、お姉ちゃんは逃げられないかも)

悪くない。

「ねえ、雫」

和先生が、雫に向き直った。

「雫は、どう?」

「…………」

全員の視線が、雫に集まる。

口が、勝手に動いた。

「……別に、行っても――」

美咲が、口だけで動かした。

き、ん、し。

雫は、ぐっと唇を結んだ。

「…………行きたい」

「うん」

「……ちょっとだけ」

和先生が、小さく吹き出した。

「決まりだね」

「むぅ……雫ちゃんが素直だと、調子狂う」

ユリシアが唇を尖らせる。

「素敵ですよ、雫さん」

渚先生が、静かに頷いた。

『では、衣装の件ですが』

茉里絵が、扇子を閉じた。

『ユリちゃんと渚先生の分も、承りますわ』

「魔女っ子で!」

「あの……クイーン魔女で……」

二人が同時に言った。

画面の中の茉里絵が、わずかに目を細める。

『お二人とも、去年と同じではありませんか』

「えっ」

「あっ」

『差別化なさいませ』

「…………」

雫は、思わず吹き出した。

「笑うな!」

「ぷっ……ごめん」

居間に、笑い声が広がった。

6.その夜

ユリシアは、クローゼットの奥から、去年の魔女っ子衣装を引っ張り出した。

「…………」

去年は、こうやって「負けないんだから」って言って。

今年は。

「……今年こそ、ぜったい負けないんだから」

壁の向こうでは、おにいたんが、何も知らずに眠っている。

渚先生は、自室でスマートフォンを手に取った。

凛ちゃんからのメッセージが届いている。

『報告』

「……三人が六人になりました」

『増えすぎでしょ!?』

即答だった。

渚は、小さく笑った。

(でも、先生の隣は、私がいちばん長く歩いてきました)

それは、誰にも奪えない。

そして。

だからこそ、胸を張って、本番に立てる気がした。

寮の部屋では、茉里絵がミシンの前に座っていた。

三人分の型紙。

ユリシア、渚先生、そして自分自身。

雫の衣装は、その第一号にすぎない。

『全員が、最高の姿で、和先生の前に立てますように』

淑女の協定とは、そういうものだ。

誰にも聞こえないように、小さく呟く。

「……もちろん、わたくしも、負けませんけれど」

ミシンの音が、夜に響いた。

立野家の居間。

雫は、一人で鏡の前に立っていた。

狐耳を、そっと触る。

「……似合ってるのは、私」

鏡の中の自分は、答えない。

「……って、言ってたわよね」

そう呟いた顔は、さっきよりずっと赤かった。

ハロウィンまで、あと一週間。

本番は――まだこれからだ。