1.美咲参謀、出動
日曜日。
午前九時十五分。
立野家の玄関。
「美咲ちゃん、おはようございます」
「おじちゃん、おはよー!」
玄関の外に、和先生が立っていた。休日らしい落ち着いた色のシャツに、軽いジャケット。肩には小さなショルダーバッグ。眼鏡はいつも通りだ。
美咲は白いパーカーにスカートを合わせ、小さなバッグを斜めにかけている。中身は、財布、スマートフォン、ハンカチ、ティッシュ。
そして、表紙に『極秘』とだけ書かれた小さなノート。
今日の任務のためである。
「準備できた?」
「うん!」
「電車の時間もあるから、そろそろ行こうか」
靴を履こうとした時、背後から視線を感じた。
振り返ると、部屋着にカーディガンを羽織った雫が、ものすごく微妙な顔で立っていた。
「何?」
「別に」
美咲の眉が上がる。
「お姉ちゃん。今、何て言った?」
「…………何でもない」
「よろしい」
「なんであんたに採点されなきゃいけないのよ!」
和先生が苦笑する。
「朝から元気だね、二人とも」
「誰のせいよ!」
「私?」
和先生は、本当に分かっていない顔をしていた。
昨日の夜、雫が布団の中で「なんで触れないのよ……」とぶつぶつ言っていたのを、美咲は隣の布団で全部聞いていた。
「雫、本当に大丈夫? 昨日も聞いたけど」
「だ、大丈夫よ! ちゃんと夕方までには帰ってきてよね!」
「もちろん」
「人混みではぐれないように!」
「分かっています」
「変なもの食べさせないでよ!」
「変なもの?」
「分かんないけど!」
「お姉ちゃん、私、小学六年生だよ」
「だから心配なの!」
和先生は少しだけ笑った。
「ちゃんと連れて帰ってくるよ」
「…………」
その言い方が妙に優しくて、雫はまた困ったような顔をする。
「……お願いします」
珍しく、素直だった。
(昨日より進歩してる)
美咲は心の中で、一つ丸を付けた。
「行ってきます、雫」
「行ってらっしゃい」
二人で玄関を出る。扉が閉まる直前、その向こうから、小さな声が聞こえた。
「……私も行きたかった」
美咲は聞こえないふりをして、和先生の隣を歩き出した。
2.参謀、任務を忘れる
電車で約四十分。イベント会場のある駅は、休日らしく混んでいた。
「おじちゃん! あれ!」
美咲が指差す先に、大きなポスターがある。
『鋼鉄天使ミカ 秋のスペシャルグッズフェア』
下には、新規描き下ろしのミカ。
「おお……」
和先生が、止まった。
「これは……私も初めて見る衣装だ」
「新しいやつだよね」
「たぶんイベント用の描き下ろしだね。テレビ版とは肩の装甲が少し違う」
「そこ見る!?」
「そこ大事じゃない?」
「大事だけど!」
二人とも、真剣だった。
本日の美咲の目的は二つ。
一つ、『鋼鉄天使ミカ』を楽しむ。二つ、おじちゃんを調査する。
……だったのだが。
会場に入って三十分後。
「おじちゃん! 限定アクスタ!」
「本当だ!」
「設定資料集、先行販売だって!」
「買おう」
「ランダム缶バッジ!」
「美咲ちゃん、それは危険だ。全八種類」
「…………」
二人で顔を見合わせる。
「二個だけにしよう」
「三個」
「二個」
「三個!」
「……三個」
「やった!」
一時間後。休憩スペースで、美咲の手には紙袋。和先生の手にも紙袋。
「買ったね」
「買ったね……」
二人とも少し反省した顔で、でも、満足そうだった。
「仲間だね」
「仲間だね」
笑い合った瞬間、美咲の頭に、昨日の姉の顔が浮かんだ。
『私が調べてあげる』
「あ」
「どうした?」
「何でもない!」
一時間以上、ただ遊んでいた。
(参謀失格!)
美咲はバッグの中の『極秘』ノートを思い出す。
(お昼! お昼でちゃんと聞く!)
3.昼食会議
午後十二時半。イベント会場近くの洋食店。
美咲はオムライス、和先生はハンバーグ。
一口食べて、二口食べて、三口目で、また目的を忘れかけた。
(ダメ!)
水を一口飲んで、美咲は切り出した。
「ねえ、おじちゃん。好きな女の人って、どんな人?」
和先生のフォークが止まった。
「急だね」
「そう?」
「何か企んでる?」
「社会勉強」
「…………」
「来年中学生だから」
「中学生になると、その社会勉強が必要なの?」
「必要」
即答だった。和先生は少し笑って、それ以上は追及しなかった。
「どういう人と一緒にいると楽しい?」
「楽しい、か」
和先生は少し考えた。
「……無理しなくていい人かな」
「無理しなくていい?」
「相手によく見られようとして背伸びし続けると疲れるでしょう? かといって合わせすぎても疲れる。何でもない話ができて、黙っていても困らない人は、いいなと思うよ」
(お姉ちゃん、ダメじゃん)
和先生の前で緊張して、強がって、意地を張って。かなりダメだった。
「じゃあ、素直な人は?」
「素敵だと思う」
(うわ)
さらに刺さった。美咲はスプーンを置いた。
「じゃあさ。お姉ちゃんのこと、どう思ってる?」
今度は、和先生がはっきり止まった。
「雫?」
「うん」
「それが一番難しい質問だね」
「めんどくさい?」
和先生は一瞬だけ考えて、小さく笑った。
「……とても手のかかる、大事な教え子、かな」
「やっぱり!」
「本人には内緒だよ」
「言う」
「美咲ちゃん」
「冗談」
半分。
「お姉ちゃんね、ほんっと素直じゃないんだよ」
「知ってる」
「嬉しいくせに『別に』って言う」
「知ってる」
「負けず嫌いで、すぐムキになって、怒ると口悪い」
「……それは特によく知ってる」
「全部知ってるじゃん」
「長い付き合いだからね」
和先生は、ハンバーグを一口食べて、少し表情を柔らかくした。
「でも美咲ちゃん。雫の悪いところを教えるために話してるわけじゃないよね」
「…………」
美咲が止まる。
「何で分かるの?」
「何となく」
(おじちゃん、やっぱり人を見るのが上手い)
「……お姉ちゃん、すっごく頑張るんだよ」
声が、少しだけ変わった。
「できないって言うの嫌いだから、誰も見てないところでずっと練習するの。撮影で遅く帰ってきても、次の日にはちゃんとしてるし。最近は勉強も」
「それは本当に変わったね」
「口は悪いけど、本当は優しいし。私が学校で嫌なことあった時も、何も言ってないのに気づくの」
美咲は姉の真似をして、眉を寄せ、腕を組んだ。
「『別に。何かあったなら聞くけど?』」
和先生が吹き出した。
「言いそうだね」
「言うよ!」
二人で笑ってから、美咲はふと静かになった。
「私ね、お姉ちゃんのダメなところ、いっぱい知ってる。めんどくさいし、怒るし、すぐ強がるし」
「うん」
「でも、そういうお姉ちゃんが、私、大好き」
和先生は、穏やかに頷いた。
「美咲ちゃんは、本当に雫のことが好きなんだね」
「だから、幸せになってほしい」
言ってから、急に恥ずかしくなる。
「変な意味じゃないよ!」
「うん、分かってる」
4.先生の答え
昼食も半分を過ぎた頃、美咲はもう一つ、気になっていたことを聞いた。
「ねえ、昨日お姉ちゃんから、返事来たでしょ」
「うん」
「何て書いてあった?」
「それは、雫のものだから、美咲ちゃんにも話せないな」
「ケチ」
「ケチじゃなくて」
和先生は、少しだけ笑った。
「ただ、自分の気持ちを言葉にしてくれたことは、先生として嬉しかったよ。前の雫なら、きっと『別に』で終わってたと思うから」
(お姉ちゃん、ちゃんと効いてる)
美咲は心の中で、ノートに太字で書いた。
「ねえ、おじちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんが見えないところで頑張ってること、おじちゃん、ちゃんと知ってる?」
「知ってるよ。前にも、本人に伝えたことがある」
「ほんと?」
「ただ、雫はたぶん、まだ半分くらいしか信じてないんじゃないかな」
「あー……」
否定できなかった。
「じゃあ、私が証人になる」
「証人?」
「お姉ちゃんに、ちゃんと言う。おじちゃんは、ちゃんと見てるよって」
和先生は、少し驚いた顔をしてから、眼鏡の奥で目を細めた。
「それは、頼もしいな。先生が言うより、妹の美咲ちゃんが言うほうが届くこともあるからね」
「でしょ」
美咲は得意げに胸を張った。
そして、さらにもう一歩、踏み込んでみる。
「今度、お姉ちゃんも連れてきたら? ミカ、嫌いじゃないって言ってたよ」
「そうだね」
和先生は、何でもないことのように言った。
「今度は雫も誘って、三人で出かけようか」
美咲、停止。
「どうした?」
「おじちゃん」
「うん?」
「それ、私から言っていい?」
「もちろん」
笑いを堪えるのに、必死だった。
帰ったら、ものすごいことになる。
5.帰還報告
午後五時前。立野家。
玄関が開いた。
「ただいまー!」
「おかえり!」
速い。美咲が靴を脱ぎ終わる前に、雫が出てきた。
「どうだった!?」
「楽しかったよ。限定グッズいっぱい買った。おじちゃんも設定資料集とアクスタと、ランダム缶バッジ三個」
「何やってんのよ、あの人」
思った通りの反応に、美咲は笑いそうになる。
「で、何話したの!?」
「お姉ちゃんの悪口」
「はぁぁぁぁ!?」
「素直じゃないとか、負けず嫌いとか、怒ると口悪いとか」
「あんた私を潰しに行ったの!?」
「でも」
美咲は、少し間を置いた。
「頑張り屋で、本当は優しくて、私のこといつも気にしてくれるって、ちゃんと言ったよ。そういうお姉ちゃんが、私は大好きって」
雫の動きが止まった。
「…………何よ、それ」
「本当だもん」
「……恥ずかしいじゃない」
「照れてる?」
「……照れてるわよ」
「おお!」
「いちいち喜ぶな!」
でも雫の口元は、少しだけ緩んでいた。
「……で、和先生は? 私のこと」
声が少し小さくなる。
「『とても手のかかる、大事な教え子』って」
「…………それ、この前も言われたわよ」
「でしょ。それとね」
美咲は、人差し指を立てた。
「おじちゃん、お姉ちゃんが見えないところで頑張ってること、ちゃんと知ってるって。前にも本人に言ったけど、お姉ちゃんはたぶん半分しか信じてないんじゃないかって」
「うっ」
図星だった。
「だから、私が証人になったの。お姉ちゃんは、ちゃんと見てもらえてるよ」
「…………」
雫は、少しだけ顔を背けた。
「あと、昨日の返事、何て書いたのかは、雫のものだから話せないって」
「…………そう」
ほっとしたような、少しだけ残念なような顔だった。
「でもね、自分の気持ちを言葉にしてくれたの、先生として嬉しかったって」
雫は、座布団に顔を埋めた。
「…………嬉しい」
「えらい」
「うるさい!」
「あとね。今度、三人で出かけようって」
座布団から、ゆっくり顔が上がった。
「…………誰と?」
「私と、おじちゃんと、お姉ちゃん」
「…………私?」
「うん。どこかは、これから決めるって」
雫の口が、半分開いたまま固まる。
「次は実践だね、お姉ちゃん」
「…………」
「ちゃんと本人の前で『楽しい』って言うんだよ。『別に』は禁止」
「ちょっと待ちなさい」
「あと――」
「待ちなさいって言ってるでしょ!!」
美咲は笑いながら逃げた。雫が追いかける。
「美咲ぃぃぃ!!」
「次は実践編ー!」
「誰がやるって言ったのよ!!」
立野家に、今日も姉の悲鳴が響く。
追いかけながら、雫の口元は、ほんの少しだけ笑っていた。
その夜。
美咲は、今日一度も開かなかった『極秘』ノートを開いた。
ペンを持って、少し考えて、一行だけ書く。
『がんばれ、お姉ちゃん。』



